足利尊氏といえば、あのざんばら髪の騎馬武者像を思い出す。鳥のヒナが生まれて初めて見た動くものを親だと思い込むというが、教室で初めて学習した際に、いったん刷り込まれた記憶もなかなか消えない。
今では尊氏像として、等持院(とうじいん)の木像が教科書に掲載されているようだが、あの顔には目力がない。他人の顔に文句言うな、と怒られそうだ。それでも、尊氏は日本史のヒーローなんだから、それらしい姿を期待するのが人情である。
だから、あの騎馬武者像が南北朝の動乱期に生きた尊氏にふさわしいのである。ただ、ふさわしいからと言って、史実が変わるわけではない。騎馬武者像は、実際には高師詮(こうのもろあきら)だという。では、尊氏はどのような顔だったのか。
尾道市東久保町の浄土寺に国宝に指定されている「多宝塔」がある。その左にあるのが、重要文化財の「阿弥陀堂」で、康永4年(貞和元、1345)の建造である。
山の緑と青空に建物の朱が映え、まことに絵になる光景である。ここで注目するのは、バランスのとれた優美なシルエットの多宝塔である。嘉暦3年(1328)の建立というから、時代区分では鎌倉時代となる。足利尊氏は、まだ「高氏」と名乗る幕府の御家人であった。
その後、幕府を見限った高氏の活躍により、後醍醐天皇の建武政権が成立した。天皇は高氏の勲功を称え、鎮守府将軍と左兵衛督(さひょうえのかみ)に任じた。それのみならず、自分の名前「尊治」から偏諱を与え「尊氏」と改名することを許したのである。
しかし、後醍醐天皇の新政は尊氏の理想とはかけ離れていた。尊氏は武家による武士のための政治を再興する動きに出る。その様子は「足利兄弟、栄光の足跡」に書いたとおりだ。
建武三年(1336)に尊氏は、いったん制圧した京を追われ九州へ下り、勢力を回復してまた京を目指した。つまり、瀬戸内海を一往復しているのである。その往路、復路とも尾道の浄土寺に立ち寄っているのだ。
本尊の十一面観音に、往路では捲土重来を祈願し、復路ではこれまでの武運に謝意を表すとともに、さらなる戦勝を祈願して、観音菩薩を称える歌三十三首を詠んで奉納した。それが、「紙本墨書(しほんぼくしょ)観世音法楽和歌(かんぜおんほうらくわか)」として伝わり、国の重要文化財に指定されている。建武三年5月5日の日付があるそうだ。
その2番目に登場する尊氏の歌を紹介しよう。尊氏作は全部で7首ある。そう、尊氏は、血筋に政治力、それに軍才に教養を兼ね備えている武将なのだ。ざんばら髪で戦いに明け暮れていたわけではない。
弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい) 左兵衛督(さひょうえのかみ)源尊氏
わたつ海のふかきちかひのあまねさに たのミをかくるのりのふねかな
「弘誓深如海」は、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、つまり観音経の一節である。観音さまの偉大な御誓願、人々を救うという誓いは海のように深い、という意味だ。この一節を踏まえて、尊氏は詠んだ。観音さまならぬ海神の人々を救う誓いも広大無辺なので、希望を託して仏道の船に乗っております。
観音さまに身をゆだねたことにより、尊氏は自信を持って京に向かい、楠木正成や新田義貞を打ち破って新政権を樹立した。そんなわけで、浄土寺の御本尊には必勝の御利益がある。
さて、知勇兼備で信仰心の篤い武将、足利尊氏はどのようなお顔だったのだろうか。これほど優れた武将なら、もはや容貌など何の関係もないのだが、有名人なのに顔が分からないのはさびしい。中世の一時代を切り開いた武将の顔は、浄土寺の国宝、多宝塔なら知っている。
※ もっとも、本堂も嘉暦2年(1327)の建造で国宝に指定されている。尊氏は御本尊に祈願したのだから、尊氏をよく知るのは本堂のほうかも。建物も眺めも美しいお寺です。
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