紀の国わかやま国体が26日、開会した。オープニングでは根来(ねごろ)鉄砲隊と雑賀(さいか)鉄砲衆が登場し、ドドーンとやったということだ。鉄砲隊は全国各地にあってイベントにひっぱりだこだが、紀州の鉄砲隊には、天下人と戦ったという誇りうる実績がある。
特に根来鉄砲隊は僧兵姿で演武するので、とりわけ目を引く。そういえば、根来寺のある岩出市のキャラクターは「そうへぃちゃん」といい、「ねんね根来のようなる鐘は 一里きこえて二里ひびく」という根来の子守唄を聞いたら、すぐに寝ちゃうんだそうだ。
岩出市根来の根来寺に「大塔(だいとう)」がある。高さ36mという日本最大の木造多宝塔で、国宝に指定されている。左に見える「大師堂」は明徳2年(1391)の建立で、国の重要文化財に指定されている。
大塔の前に立つと圧倒的な迫力を感じる。仏の広大無辺な御心を象徴しているようでもあり、宗教勢力としての権勢を誇っているようでもある。
何よりうれしいのは、大塔の中に入って礼拝できることだ。天文16年(1547)の完成という知識を頭に入れて、心静かに内陣を巡れば、時空を越えて中世を旅しているような気になる。
さて、時代が近世へと移ろうとしていた頃である。天正8年(1580)12月10日に、ある高僧が根来寺を訪れ、一泊して帰ったという。高僧の名は顕如(けんにょ)上人。石山本願寺を要塞化して織田信長と長く戦ってきたが、実質的な敗北により、4月10日に紀州鷺森(さぎものり)に退去していた。
8か月を経て根来寺を訪れたのは、これまでの支援に対するお礼を言おうとしたのか、今後の動きに備えて連携しようとしたものか。いずれにしろ、1万ともいう根来衆の宗教都市を顕如は訪れた。そこは、顕如が守ろうとした宗教的共同体、つまりは「中世的」なる場所だった。
ところが根来寺は、天正13年(1585)3月23日に、羽柴秀吉の紀州攻めにより焼討ちされてしまう。「近世的」なる社会を開かんとする秀吉は、宗教に対する政治の優越を目指していたのである。中世宗教都市は炎とともに壊滅した。
その様子を当時の記録で確認しておこう。『石山本願寺日記』「雑記」より
廿三日二秀吉根来寺ヘ御陣替、根来寺法師共ハ、御人数不越已前ニ悉迯去、寺ヲバ放火アルマジキ由候つれ共、時刻到来歟、廿三日夜所々ヨリ焼出、大伝法院ノ本堂バカリ残テ、悉焼果了、
早くから新兵器・鉄砲を導入し、その名を轟かせた根来衆だったが、あの秀吉が目前に迫ると「悉(ことごと)く逃げ去る」という腰砕け状態だったようだ。
本堂である大伝法堂は焼け残ったとあるが、これもしばらくして秀吉の部下の手により破却されてしまった。そんな事情で、当時の建物のうち今に伝わるのは、大塔と大師堂だけである。その他の立派な伽藍は江戸時代になってから整備された。
根来寺を中心とした中世の宗教都市とは、どのようなものだったのだろうか。寺坊堂舎は千余とも三千八百とも伝えられているそうだ。そこに多くの僧兵が暮らし、いざという時には鉄砲を手に戦う用意ができていた。顕如は宗教の自治能力に再び期待を寄せたのではないか。
想像するしかない中世宗教都市、根来の姿を大塔は知っている。さすがは国宝の多宝塔だ。と、ここで追加の情報あり。今度は中世のVIPの真実を知る国宝の多宝塔があるという。さっそくに現地、尾道へ急行した。そのレポートは次回、乞うご期待。
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