予防接種で思い出すのは「鉄砲注射」である。インフルエンザ予防の集団接種だったと思う。子どもたちにとって恐怖の的だった。逆に歓迎された(ことはないがホッとした)のは「はんこ注射」だった。なぜか痛くない。こちらは結核予防のBCGらしい。
インフルエンザも結核も恐ろしいが、もっと怖いのが天然痘である。だから人々は天然痘から逃れようと神仏に祈った。以前に「ほうその神さん」をレポートしたことがある。「ほうそ」とは疱瘡(ほうそう)、つまり天然痘のことである。古くは「もがさ」という呼び名もあった。
天然痘の予防接種である種痘は、私も小さい時に受けた。記憶にはないが、二又針で二の腕にワクチンを植えつける方法だったようだ。緒方洪庵以来の長い歴史のある種痘も、罹患の恐れがなくなったとして昭和51年に中止された。
堺市堺区西湊町一丁の船待神社の境内社に「瘡神社(かさがみさん)」が鎮座する。
祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)である。どのような由緒があるのか。社務所でいただいた由緒書を読んでみよう。
敏達天皇十四年三月瘡疾(できもの)が流行し国内で死者が多く出た。瘡を病む者は身を焼かれ打たれる様な苦しみを覚え死んでいった。故に当時の村民が協議して医薬の祖神である少彦名命を祀って神前に祈願したところ霊験あらたかにして瘡を病む人は忽ち平癒したと社記に伝えられている。平成三年十二月社殿を現在の場所に新築した。
敏達(びだつ)天皇14年とはずいぶん古い時代だ。西暦では585年である。当時の村人が少彦名命を祀ったというから、この神社は1400年以上、人々の健康を見守ってきたのだ。
さて、その年の3月に国内で「できもの」が流行して死者が多数でいたという。これは当然ながらニキビではない。死に至る病だから天然痘が考えられる。当時の状況を『日本書紀』で確かめておこう。巻第20、敏達14年3月条の書下し文である。
天皇、任那を建てむことを思ひて、坂田耳子王(さかたのみゝこのおほきみ)を差して使と為す。此の時に屬(あた)りて、天皇と大連と、卒(にはか)に瘡(もがさ)患(や)みたまふ。故れ遣すを果さず。橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)に詔して曰く、考天皇(かぞのきみ)の勅に違背(そむ)くべからず、任那の政(まつりごと)を勤め脩(おさ)むべし。
又瘡(もがさ)を発(おこ)して死ぬる者、国に充盈(み)てり。其の瘡を患む者言ふ、身焼かれ打たれ摧(くだ)かるゝが如し。啼泣(いさち)つつ死ぬ。老も少(わか)きも、竊(ひそ)かに相語りて曰く、是れ仏像を焼きまつれる罪か。
敏達天皇は562年に滅んだ任那を再建しようと思い、坂田耳子王を派遣しようとした。ところが、この大事な時に、天皇と大連の物部守屋が天然痘にかかったので、派遣は中止となった。そこで天皇は弟の橘豊日皇子(後の用明天皇)に次のように言った。「父である欽明天皇の遺言に背いてはならない。任那で勢力圏を回復するのだ」
一方、天然痘で死ぬ者は国じゅうにあふれていた。この病にかかった者は「身が焼かれるようだ。打たれるようだ。くだかれるようだ」と言い、声をあげて泣きながら死んでいった。老いも若きも誰もがひそかに語り合った。「これは、天皇が仏教禁止令を出し、守屋が仏像を焼き捨てたから、バチが当たったにちがいない」と。
病気は政治をも動かす力を持っている。敏達天皇の政治は、天然痘ウイルスにより2つの影響を受けた。それは図らずも、我が国の歴史の流れをつくることとなったのである。
一つは任那回復が阻止され、我が国が朝鮮半島の政治に介入しなくなったこと。もう一つは仏教禁止が妨害され、我が国が仏教を受容していくことである。これらを後世から評価するとすれば、どちらも結果的に好ましかったといえる。
朝鮮半島への進出はその後三度試みられ、すべて失敗に終わっている。いずれも人的あるいは外交的に大きな損失となった。敏達天皇は意気込んでいたようだが、半島進出の結果生じるリスクを天然痘が未然に防いでくれたのだ。
仏教の受容は、我が国の文化の源流の一つとなった。広大無辺の慈悲をお持ちの御仏が、罰として天然痘を流行らせるとは思えないが、仏教の力の大きさを人々に印象付けることとなった。
一方で、歴史上の意義とは無関係に日々を生きる庶民にとっては、天然痘パンデミックは恐怖以外の何物でもなかったろう。種痘が開発されるまでには、まだ1200年の歳月を待たねばならぬ。頼みとなるのは、やはり神や仏である。瘡神社もそのようにして祀られ信仰されてきたのであろう。
世界保健機関は7日、シエラレオネにおけるエボラ出血熱の流行が終息したと宣言した。この国だけで3955人が亡くなったそうだ。パンデミックは遠い地域、遠い昔のことだと侮ってはならない。少彦名命が瘡神社の奥から、私たちの行動を見守っている。
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