これまで「腰掛石」は何度も紹介してきたが、今回のものほどよく出来たものはない。ふつうは高さがいい感じの座りやすい石である。しかも石だけである。
ところが今回のはどうだ。紙垂(しで)に囲まれて清浄な空間、結界が作られている。しかも座布団が用意され、座ったまま本殿にお祈りすることができるのだ。使用方法が掲示されており、初心者にもやさしい。
堺市堺区西湊町1丁の船待神社の境内に「菅公腰掛石」がある。
菅公こと菅原道真は、なぜこの神社にやって来たのだろうか。詳しいことを社務所でいただいた由緒書で調べてみよう。
当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。その後延喜元年一月(人皇第六十代醍醐天皇の御代)菅原道真公が太宰府へ下る途中河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった菅原道真公の遠い先祖に当る天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。
その後長保三年一月十五日(一条天皇の御代)菅原朝臣為紀と云う人がこの地に来た時に残した種々の跡を調べ官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀し船待天神社と改めた。その後寛治年中に塩穴郷より今の湊の地に再建されたものである。
アメノホヒはアマテラスの子供である。アメノホヒの子孫が野見宿祢(のみのすくね)で、その子孫が土師(はじ)氏で、その子孫が菅原氏である。左遷された道真は、大宰府に向かう途中で祖先ゆかりの地へ立ち寄ったわけだ。
船待神社に来る前には道明寺にも立ち寄っている。今、お寺の隣には道明寺天満宮がある。天穂日命と菅原道真公を祀るのは船待神社と同じだが、道明寺天満宮ではさらに道真公のおばである覚寿(かくじゅ)尼公も祀っている。
覚寿尼公とは聞き慣れないが、歌舞伎の世界では菅丞相(かんじょうしょう)の伯母「覚寿」として舞台に登場する。菅丞相とは道真のこと。あの名作『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』である。この作品には、摂津安井で汐待ちしていた菅丞相が覚寿の館を訪ねる場面があるが、その段を「道明寺」という。覚寿の館が後に道明寺となったことに由来する。
菅丞相が汐待ちしていた摂津安井はどこだろうか。船待神社のある場所は和泉国であり、摂津国はもう少し北に位置する。歌舞伎のキャラクターやストーリーが史実を再現しているわけではないので、これ以上の詮索はやめておこう。
道真が京を発ったのは昌泰四年(901)2月1日だが、実のところ、どのような経路で大宰府に移ったのかは分からない。道真が立ち寄ったという伝説は瀬戸内を中心として各地にあるが、あまりにも多すぎてルートの解明には役立たない。
だから、道真が道明寺経由で船待神社に来て、石に腰掛けて船を待ったというのも、伝説に過ぎないのかもしれない。いずれにしろ、船待神社の由緒は『菅原伝授手習鑑』道明寺の段を意識して作られているように思う。
長保三年(1001)に神社を訪れ、朝廷に道真の合祀を申請した菅原為紀は、道真の4世の孫である。道真-淳茂-在躬-輔正-為紀とつながる。菅原家の人々は先祖を大切にする。
さあ、ひと通りのことが頭に入ったら、もう一度「菅公腰掛石」に座って手を合わそう。学業成就でも厄除開運でも何でもお祈りするとよろしい。船待神社だけに、待てば海路の日和あり、である。
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