二人の天皇が対立する異常事態を収束した南北朝の合一は、明徳三年(1392)のことである。これを成し遂げることで足利義満の権力基盤は確固たるものとなり、金閣に象徴されるような室町幕府の最盛期を迎える。私はそのように理解していた。
ところが調べてみると、南北朝合一後も、義満に対する叛乱が発生していた。しかも、南北朝の和議を周旋した有力な守護大名が叛旗を翻したのである。
堺市堺区西湊町二丁の本行寺に「大内義弘戦死之址」がある。墓碑には「大内義弘 香積寺殿道春梅窓大居士 応永六年十二月廿一日戦死」と刻んである。
大内氏は周防を拠点とする守護大名で、義弘は第25代当主である。明徳二年(1391)の明徳の乱で山名氏討伐に功があり、将軍義満から2か国の守護職を加えられた。これにより周防、長門、石見、豊前、和泉、紀伊の6か国の守護となった。
義弘が南北朝の和議を周旋したのは、その翌年である。後年、義弘は次のように述懐している。当時の合戦記『応永記』の原文を引用しよう。
某南朝御和睦ノ事ヲ取申シ、両朝一統スルノミニ非ズ、三種ノ神器ヲ当朝ニ納ム。凡神器ト申ハ大国ノ秦ノ李斯ガ藍田ノ玉ニテ造シ、印璽ニハ替リテ、忝モ天照大神ヨリ相伝リテ、帝々相伝シ玉フ三国無双ノ霊宝トコソ承候ヘ。是又非随分ノ忠節乎。
それがし、南朝との和睦を取り持って両朝の合一を成し遂げただけでなく、三種の神器を北朝に取り戻しました。そもそも神器というのは、あの秦の丞相、李斯(りし)が藍田(らんでん)の玉でつくった印璽(いんじ)に替えて、かたじけなくもアマテラスから代々の天皇へと伝えられた、この世に二つとない秘宝だと存じております。それを取り戻したのですから、これもまた、かなりの忠節ではないでしょうか。
南北朝の合一は、義弘にとって生涯の誇りである。「完璧(かんぺき)」の故事において、宝玉を命懸けで取り戻した藺相如(りんしょうじょ)に、自分を重ねていたことだろう。
それなのに、である。領国の和泉と紀伊が没収されると伝え聞く。少弐氏討伐で弟が討死するほど活躍したにもかかわらず、恩賞がまったくない。あまつさえ、少弐氏には秘かに義弘討伐を命じていたというではないか。許すまじ将軍義満!
ついに義弘は立ち上がった。応永六年(1399)10月13日、義弘は軍勢を率いて和泉の堺の浦に上陸した。義満は真意を確かめるため、高徳の禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を派遣した。この時、義弘が吐露したのが、先に引用した忠節の思いである。
義弘は、鎌倉公方の足利満兼(みつかね)を担いで将軍義満に対抗しようとした。しかし、満兼との合流はかなわず、義満が派遣した圧倒的な軍勢に打ち破られ、義弘は討ち取られるのである。12月21日のことであった。義弘の最期を『応永記』で読んでみよう。
義弘入道サスガ深手負タル上、一日ノ合戦ニ力竭キヌレバ、今ハ角ト思テ、大音挙テ申様、天下無双ノ名将大内左京権大夫義弘入道ゾ、吾レト思ハン者共討取テ相公ノ御目に懸ヨトテ、名乗懸々々戦ケル程ニ、終ニ尾張守ニ合テ討死ス。
さしもの義弘も深手を負い、一日の合戦で力尽きたので、今はこれまでと思い、大音声でこう言った。「天下無双の名将、大内左京権大夫義弘入道なるぞ。我と思わん者は討ち取って、義満公のお目にかけよ」何度も名乗りながら戦っていたが、ついに畠山満家の手にかかり討死した。
山口市の瑠璃光寺には、美しすぎる国宝の五重塔がある。あの塔は、義弘の跡を継いだ弟盛見が、兄の菩提を弔うために建て始めたものだ。これに比べると戦死の地の供養塔は地味だが、将軍義満に正面からぶつかった武将の意地を伝えている。三種の神器を取り戻したという誇りととともに。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。