TPP参加12か国の首脳会合が先月18日、フィリピンのマニラで開かれ、安倍首相とオバマ大統領が固い握手を交わした。ここに至るまでに甘利大臣はどれほど苦労したことか。
さっぱり動かない北方領土問題だが、来夏にプーチン大統領が来日するという。1~2月には外務次官級協議が東京で行われる。信頼関係を築き、しっかりと話を詰めて、大統領を迎えたいものだ。
今日は、華々しいトップ会談に隠れた予備交渉の重要性に目を向ける話である。
静岡市葵区伝馬町に「西郷・山岡会見の地」があり、静岡市指定の史跡となっている。ペガサートというビルの前にあり、当時の雰囲気は偲べないが、記念のレリーフが会談した二人の面影を伝えている。左が西郷隆盛、右が山岡鉄舟である。
西郷隆盛との会見といえば勝海舟だ。場所は江戸の薩摩藩邸、左に西郷、右に勝が正座をして向かい合っている絵を思い出すだろう。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館の「江戸開城談判」である。
慶応四年(1868)3月13日、14日のことで、15日には新政府軍による江戸城総攻撃が予定されていた。勝が示した条件は、厳罰を望む新政府側の面々を必ずしも納得させるものではなかったが、西郷は勝を信頼して総攻撃を中止した。西郷と勝は旧知の仲であり、互いの腹の内も理解していたに違いない。
しかし、朝幕の軍首脳による会談は、西郷と勝の人間性によってのみ成功を収めたのではない。冒頭で紹介したトップ会談と同じように、予備交渉が行われていたのである。それが西郷吉之助(隆盛)と山岡鉄太郎(鉄舟)の会見であった。3月9日のことである。
山岡鉄舟は勝海舟、高橋泥舟と並ぶ幕末の三舟として知られている。予備交渉を担ったのは、山岡が勝の腹心の部下だったからだろうか。
そうではなく、勝は山岡と初対面だったという。「海舟日記」(改造社『海舟全集第9巻』)の慶応四年三月五日条には、次のように記されている。
旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見其為人(ひととなり)に感ず。同人申旨あり、益満(ますみつ)生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す。
勝は山岡を一見して、その人柄に感ずるものがあったという。山岡は、捕らえていた薩摩藩士の益満休之助を同行して駿府に赴いた。道中では益満が薩摩藩と名乗って無事に通行できた。
駿府に着いた山岡らは、大総督府下参謀(しもさんぼう)西郷隆盛に会うため、伝馬町の松崎屋源兵衛宅を訪れた。今回紹介している場所である。以下、『鉄舟随筆』所収の「西郷氏と応接之記」に従って会話を再現してみよう。明治15年に山岡自身が記した内容である。
「西郷殿、このたびの朝敵征討は、何がなんでも進撃なさるおつもりか。ご決心のほどを拝聴つかまつりたい」
「私がこの軍を補佐しているのは、もとより人を殺し、国家を乱そうとしているのではない。謀反を起こそうとする者を鎮定しようとしているだけだ。貴殿はなぜ、そんなことを言われるのか」
「お考えはごもっともなこと。ならば我が主君、徳川慶喜は恭順の意を示して寛永寺に謹慎し、罪を待ち、生死は朝廷のご沙汰に従うつもりだ。それなのになぜ大軍を進めているのか」
「生死は朝廷のご沙汰に従うとか、恭順だの謹慎だのと申されるが、すでに甲州では官軍に抵抗して戦いが始まっていると聞いている。貴殿の言うことは信じがたい」
「我が主君は自ら恭順の意を示して謹慎し、家臣らにも厳しく命令しているが、家臣の中には主君の命に反し、あるいは脱走して反抗する者もいるだろう。しかれども、このような訳の分からない奴らは、我が徳川家と縁を絶った者であり、断じて主君慶喜の関知するところではない。今西郷殿が申された甲州の騒乱はそういう奴らのしわざだろう。私は我らに正義あるを信じ、主君慶喜の偽りのない心を朝廷に届けようとしているのだ。それができなければ、脱走した奴らと同じように見られる。だからこそ、危険をかえりみずこの御陣営に参上したのである。ぜひとも大総督宮殿下に、お取次をお願いする」
西郷はしばし沈黙…
「私は主君慶喜の意を体し、礼を尽くして申し上げているのだ。にもかかわらず、西郷殿にご理解いただけないのなら、私は死ぬのみである。徳川家の旗本八万騎のうち、命を惜しまない者は私だけではない。そんなことになれば、徳川氏だけでなく日本国家はどうなるのか。それでもなお西郷殿は進撃なさるおつもりか。もしそうなら、官軍とは呼べない。私が思うに、天皇は民の父母である。道理にはずれたことを正し、不届き者を討つのが真の官軍なのだ。朝廷の命に背かないと申している忠臣慶喜に対し、寛大な処置がなければ、これから天下は大いに乱れるだろう。西郷殿、どうかご理解いただきたい」
「先日、静寛院(和宮)と天璋院(篤姫)の使者が来た。慶喜殿の恭順謹慎のことで嘆願していたようだが、ただ恐れ入るばかりの様子で、理を尽くした話にならず、何の成果もなく戻っていった。貴殿がわざわざここまでお越しになったことで、江戸の事情がよく分かり、本当によかった。貴殿のお気持ちを大総督宮に申し上げることとする。しばしここで、ご休憩なされよ」
西郷は大総督の有栖川宮のもとへ行き、しばらくして帰ってきた。宮からは文書で次の五か条が示された。
一 城を明渡す事
一 城中の人数を向島へ移す事
一 兵器を渡す事
一 軍艦を渡す事
一 徳川慶喜を備前へ預る事
「この五か条が履行されるならば、徳川家に寛大な処置もあるだろう」
「謹んで承った。しかれども、私は五か条のうち一か条だけは、どうしてもお受けできない」
「それはどの条件か」
「主君慶喜を備前に預けることは絶対にできない。なぜならば、事ここに至っては、徳川恩顧の者たちは決して承服しないからだ。結局は戦端を開き数万の命をむなしく失う。これは官軍の行うことではない。そんなことになれば、西郷殿はただの人殺しに過ぎない。そういうことで、私はこの条件だけは決して承服できない」
「これは朝廷の命令である」
「たとえ朝廷の命令であろうと、私は承服しないと断言しておく」
「朝廷の命令であるぞ」
この次の二人の会話が圧巻である。原文で記すこととしよう。
「然らば先生と余と其位置を易へて、暫く之を論ぜん。先生の主人、島津公若し誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為め尽力するに当り、主人慶喜の如き、御所置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情先生の義に於て如何ぞや。此儀に於ては、鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり」
と激論せり。西郷氏黙然暫ありて云く、
「先生の説最然り、然らば徳川慶喜殿の事に於ては、吉之助屹と引受取計ふ可し。先生必ず心痛する事なかれ」
と誓約せり。
立場を代えて考えてみよ。山岡は西郷の情に訴えかけた。貴殿の主君島津公が慶喜公と同じ立場だったら、どんな思いがする。私の気持ちが分かるだろう。これに対して、西郷は答えた。分かった。私に任せてほしい。山岡殿に決して心配をかけはしない。
幕府と薩摩、それぞれの君臣に固い絆があることを、両者は確認した。戦乱が回避され、徳川慶喜と江戸の運命が開けた瞬間である。西郷隆盛と山岡鉄舟だからこそ成し遂げられた偉業と言ってよいだろう。
西郷隆盛と勝海舟の談判の意義を否定するつもりは毛頭ない。ただ、トップ会談における予備交渉の重要性だけは、もう一度確認しておきたい。
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