少し珍妙に聞こえるかもしれないが、徳川慶喜とミハイル・ゴルバチョフは似ている。徳川慶喜は最後の征夷大将軍、ゴルバチョフはソビエト連邦最後の元首である。
組織を滅亡させてしまった最後の人ならいくらでもいる。多くは自らの失策によるものだ。しかし、慶喜とゴルバチョフは違う。彼らは英明にして先の読める政治家であった。
状況さえ良ければもっと偉大な業績を残しただろう。いや、あの厳しい状況だったからこそ、必要とされた人物であり、最大限の働きをしたと評価できる。
慶喜なら封建社会からの脱却、ゴルバチョフなら全体主義からの脱却、つまり、時代が求めていた改革である。それを二人は実行しようとしたのだ。
ただ、二人が支えようとした母屋はあまりにも古すぎた。思い切った補強をしようとして崩壊してしまったのである。
二人はトップを退いた後も長い人生を歩んでいる。一私人として時代を見つめた。本日は明治半ばの慶喜を取り上げる。すっかり過去の人となったように見える旧将軍について語ることにしよう。
静岡市葵区西草深町(にしくさぶかちょう)の西草深ポケットパークに「徳川慶喜公屋敷跡」の石碑がある。屋敷はこの碑から北方向に広がっていたらしいが、その面影はまったくない。
江戸城を明け渡した旧将軍慶喜は、慶応四年(1868)4月11日、水戸に退去して謹慎した。その後、徳川宗家の家督は田安亀之助が相続し、徳川家達と名を改め駿府70万石へ移封となった。
これに伴い、慶喜も駿府の宝台院(現在の静岡市葵区常磐町二丁目)に入って謹慎を続けた。7月23日のことである。謹慎は明治二年(1869)9月28日に解除され、10月5日には紺屋町(今の浮月楼のある場所)に移った。
目まぐるしいまでの環境の変化はここまでである。紺屋町には20年近く住んだ。政治的には動から静へと変化したが、慶喜公の自由闊達な真の人生はここから始まったと言ってよい。
県内各地へ狩猟に出かけるのが一番の楽しみだった。鉄砲を構えてイノシシを狙っていたらしい。好奇心も旺盛で、当時珍しかった自転車にも乗った。前輪の大きなダルマ型自転車である。
東海道本線が開通したのは明治22年(1889)である。紺屋町は静岡駅の近くだから、新し物好きな慶喜公はお喜びかと思ったら…。前林孝一良『徳川慶喜 静岡の30年』(静岡新聞社)を読んでみよう。
慶喜は鉄道の開通に先立って、一八八八年(明治二十一)三月六日、家族、執事たちを伴って西草深(にしくさぶか)に転居している。紺屋町の屋敷が線路に近いので、その騒音や煤煙を嫌ったのがその理由であった。
西草深に移ってから熱中したのはカメラである。やはり県内各地を撮影している。嫌いな鉄道も被写体としており、「安倍川鉄橋上り列車進行中之図」という作品がある。鉄橋を蒸気機関車が力強く渡っている。鉄道写真にはよく見られる構図だ。慶喜公は、今なら「撮り鉄」と呼ばれていただろう。
静岡を愛した慶喜公だが、東京には戻りたいと常々思っていたようだ。公が頼みとしたのは勝海舟である。やはり『徳川慶喜 静岡の30年』を読んでみよう。
勝によれば、慶喜は上京できるように何度も勝に頼んでいるということである。それを勝が三十年間「突張って置いた」。しかし、勝がもうそろそろいいだろうと考え始めたのは一八九四(明治二十七)ごろであったという。(『海舟座談』)。慶喜を担ぎ出して新政府を揺さぶろうなどと企てる者もいなくなったし、政府自体の体制も整った。まさか一生閉じ込めておくわけにもいかないし、タイミングとしてはいいだろう、との判断であった。
願いが叶い、慶喜公が静岡を離れたのは、1897年(明治30)11月16日のこと。公は実に30年近く静岡で暮らした。30~50歳代の壮年期をこの地で過ごしたのである。
平成10年に『徳川慶喜』という、そのままのタイトルで大河ドラマにもなった。激動の幕末を描き、最終回は江戸城無血開城であった。つまり、慶喜は幕末の歴史人物である。
しかし、一個人としての慶喜公の人生を振り返るなら、新しいことにチャレンジできた静岡時代が最も充実していたのかもしれない。
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