ネットで検索していると、「Yahoo!知恵袋」とか「OKWAVE」がヒットすることがよくある。専門性の高い回答により、五里霧中がすっきりと解消するのは気持ちよい。ある人の知識が他人を助け、それが広まることで世の中が暮らしやすくなっていく。知識の共有が社会の発展に貢献しているのだ。
インターネット社会かつモバイル社会にあっては、情報の共有が質問サイトを通じて迅速かつボーダレスに行われる。このように、知識を共有する場をナレッジコミュニティという。
静岡市葵区追手町に「教導石(きょうどうせき)」がある。市指定有形文化財(歴史資料)である。
正面には「教導石」と刻まれているらしいが、「教」の字は知っていなければ読めない。その上には「里程畧表」とあり、地名と距離が記されている。写真に見える左側面には「教ル方」、右側面には「尋ル方」とあり、それぞれの下にスペースがある。どのような機能を有する石なのか。市及び市教委設置の説明板を読んでみよう。
「教導石」は、明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」との趣旨に賛同した各界各層の人たちの善意をもって明治十九年(一八八五)七月に建立されました。
正面の「教導石」の文字は、旧幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、本市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つとなっています。
碑の正面上部には、静岡の里程元標(札ノ辻)から県内各地、及び東京の日本橋や京都三条大橋までの距離を刻んであります。
教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ル方(たずねるかた)」とし、住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情等がある人はその内容を貼りつけておくと、物事をよく知っている人や心ある人が左側面の「教ル方(おしえるかた)」に答を寄せる、というものでした。
尋ね事などのほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告から遺失物や迷子をさがす広告なども掲示してよいことになっていました。
なるほど、これは便利だ。分からないことを尋ねたい人は、その内容を紙に書いて貼っておくと、知っている人が同じように紙で回答してくれるというのだ。まさに教え導いてくれる石である。
いったいどのように活用されたのだろうか。前林孝一良『徳川慶喜 静岡の30年』(静岡新聞社)に次のような記述を見つけた。引用文中で「同紙」とは「静岡大務(たいむ)新聞」のことである。
教導石が建立された七月の末には、道中日誌紛失の貼り紙をした敦賀の商人越前屋五兵衛の逗留する東京の宿に匿名の郵便で日誌が届けられ大変感激している、との記事が載せられているし、一年後の一八八七年(明治二十)七月二十七日の同紙には、この一年間で百六十七回、一カ月平均十三・九回の利用があったことが記されている。教導石は静岡の町の情報交換の場として大いに利用されていたのだった。大正の半ばごろまでは利用者があったということであるが、新聞・雑誌が普及する中で教導石はその使命を終えた。三十年ほどの命であった。
30年ほどとはいえ、かなり利用されていたことが分かる。教えてもらった情報に、ずいぶん助けられた人も多かったに違いない。現代の私たちはネット上のサイトに教えてもらっている。ネットと石、媒体はまったく異なるが、「教導」という機能は変わらない。
静岡ではすでに明治半ばに、この石が媒介して知識をやり取りする空間が形成されていたのだ。ナレッジコミュニティの先駆けと位置付けられる貴重な歴史資料である。
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