尊王攘夷運動をどう理解するかは、歴史の難問である。
この運動が、天皇を頂く中央集権国家を形成する原動力となったことは確かだ。つまり「尊王」という側面からは、日本の近代化を促したものと評価できよう。
一方、「攘夷」は排外主義である。鎖国と何の違いがあるというのか。異人討つべしと外国人を狙ったテロが頻発したのもこの時代であり、それは鎖国よりもひどい。
しかしながら、外国人の排除によって日本の近代化が成し遂げられたのではない。むしろ欧米の文物を取り入れ、人に学び、国際社会に積極的に参画することで、現代に至る日本の基礎ができたのである。
であれば、尊王運動は新時代を築いたと評価できるが、攘夷運動は偏狭なナショナリズムとして負の記憶に位置付けられるのだろうか。
いや、攘夷はそんなちっぽけな考えではない。外国の武威に屈するような弱小国ではなく、列強に伍する強国になることである。そのためには、テロによって外国人を排除するのではない。対等の立場で国際法にのっとり交渉する。独立国家としての気概を見せること、これが真の攘夷である。
そういう攘夷なら、幕府に忠実な佐幕派であれ、朝廷の権威に期待する勤王派であれ、思いは同じはずだ。誰であれ「国家」を意識し、国威の発揚に熱い思いを抱いていた。
ならば何が両派を分けるのか。それは、国の前途を誰の手に委ねるのか、この一点である。実務を行う幕府か、権威ある朝廷か。もう少し具体的に言えば、武威に屈し社会に混乱を招いた現政権に期待せず、朝廷のもとで新政権の樹立を志向するのか、ということである。
姫路市塩町の大蔵前公園に「姫路藩勤王志士終焉之地」と刻まれた碑がある。
尊王攘夷運動は、薩長と幕府の争いばかりがイメージされがちだが、実に、全国各藩に嵐のように吹き荒れていたムーブメントである。
薩長とて一枚岩ではなかった。薩摩藩では島津久光が伏見寺田屋で尊攘激派の藩士を上意討ちとした。長州藩では『花燃ゆ』で描かれたように、椋梨藤太らの俗論派と高杉晋作らの正義派の主導権争いがあり、双方に犠牲者が出ている。さらには、御三家の水戸藩でさえ激しい内部抗争があった。
大老を輩出した譜代酒井家の姫路藩も例外ではない。藩の指導層は当然ながら佐幕を本分と考えたが、藩内には尊攘派(勤王派)が育っていた。その中心人物が河合惣兵衛である。
姫路市坂田町の善導寺に「河合惣兵衛の墓」がある。
墓碑には「贈従四位河合宗元君之墓」とある。贈位されていることからも、勤王派として評価されていることが分かる。いったい、どのような事績のある人なのか。墓碑前の説明文を読んでみよう。
河合惣兵衛宗元(かわいそうべえむねもと)文化十三年(一八一六)~元治元年(一八六四)
姫路藩における勤王派の中心的人物、姫路藩家老河合道臣(寸翁)の創設した仁寿山校に学ぶ。武芸・学問に通じ好古堂(藩校)の肝を命じられ若き藩士達の指導者として仰がれ、姫路藩の勘定奉行、宗門奉行、物頭を務めた。
幕末、自らの死をかけ朝廷へ攘夷実行を進言する。しかし宗元らの忠誠心は、佐幕派であった藩の受け入れるところとならず、元治元年十二月二十六日、「甲子の獄」で囚われ刑に処せられた。宗元は自らの命よりも国の行く末を案じ、次の辞世の句を読み自刃した。
ひをむしの 身をいかでかは をしむべき ただをしまるる 御世の行すゑ
「ひおむし」とは、朝に生まれ夕べには死ぬという、はかない命の虫のことである。自分の人生は、その虫のようにはかないものだ。私はこの国の行く末だけを心配しているが、それに関わることができないのは残念である。
文久二年(1862)、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)は幕命により京都所司代と協力して禁裏護衛の任に当たるため入京した。惣兵衛も養子の伝十郎とともに守備隊に加わり、京の尊攘派と交わりを深くした。
当時の京都所司代は小浜藩主酒井忠義(ただあき)だったが、尊攘派の取締に力を入れていた。そこで惣兵衛は、藩主に次のように諫言したという。兵庫県編『振武余光』(明治37)より
所司代は奸曲にして王室の為に忠ある者に非ず。如何ぞ彼と力を協力すべき且天下の形勢を考へ諸藩の向背を窺ふに尊王攘夷を以て主とするに如くはなし。
そうは言われても、酒井家は徳川家の藩屏をもって任じる譜代の家柄、幕府の意向を違えるわけにいかない。国の行く末に熱い思いを抱くのはよいが、藩政に混乱を招く言動は慎んでもらいたい。藩主の忠績は尊攘派に手を焼いていた。
文久三年(1863)8月18日、朝廷内でクーデターが勃発、尊攘派が一掃された。時流は公武合体、つまり佐幕派に向いてきたのである。
これを受けて姫路藩も、藩内の尊攘派の弾圧に乗り出した。これが元治元年(1864)の「甲子(かっし)の獄」である。惣兵衛は国の行く末を思いつつ切腹して果てた。明治24年に靖国神社に祀られ、従四位が贈られた。
本堂の裏手に「河合伝十郎の墓」がある。伝十郎は惣兵衛の養子である。墓碑には「贈正五位河合傳十郎宗貞之墓」とある。墓碑横の説明も読んでみよう。
河合伝十郎宗貞(かわいでんじゅうろうむねさだ)天保十二年(一八四二)~元治元年(一八六四)享年二十四才
姫路藩勤王派志士、「甲子の獄」で囚われ斬の刑に処せられた。
辞世の句 此ままに 身は捨つるとも 生き変り はふり殺さん 醜の奴ばら
このまま死んでも生き返って佐幕派に天誅を加える、と激しい思いを抱きつつ斬首された。「天誅」はこの時代の流行語であり風潮であった。月に代わっておしおきよ、ではなく、天に代わって不義を討つ、である。
文久三年(1863)正月、伝十郎と同志は、御用商人の紅粉屋又左衛門に天誅を加えた。この出来事は「タコに骨なし ナマコに目なし ベニ屋のおっさん 首がない」と謡われたという。
さらに脱藩も企てた伝十郎は、養父惣兵衛と同じ日、元治元年(1864)12月26日に処刑された。死罪となった勤王志士は二人を含め8名である。
大蔵前公園の「姫路藩勤王志士終焉之地」の碑は、ここにかつて獄舎があり処刑が行われたことを示している。碑の裏には8名の位階と姓名、享年が刻まれている。惣兵衛には従四位、その他の志士には正五位が贈られている。
憂国の思いを抱きながら明治維新を目前にして散った悲劇の人々を偲び、近代日本の原点である維新の大業に感謝する場である。
ただ、少々すっきりしないのは、新政府成立後の慶応四年(1868)から翌年にかけて、政権に復帰した勤王派の人々が、佐幕派に対して死罪を含む報復をしていることである。これを「戊辰の獄」という。
もちろん佐幕派の死者は顕彰されることがない。彼らは急激な変革を避け政治秩序を守ろうと行動した。勤王派とはヴィジョンは異なったかもしれないが、国の行く末を憂う気持ちは同じだったろう。
なのに一方は志士として顕彰され、もう一方は歴史の彼方へ忘却されていく。まさに「勝てば官軍、負ければ賊」という、明治維新を絶対視する価値観である。
とはいえ、やはり明治維新は輝かしい。昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』でも志士ゆかりの地がたくさん紹介されていた。志士は薩長と坂本龍馬だけではない。姫路をはじめ全国各地で憂国の志士が活動していたのである。吉田松陰の言う「草莽崛起(そうもうくっき)」とはこういうことなのだ。
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