「三匹の子ぶた」は、建材の強度を子どもたちに分かりやすく教える話である。わらよりも木、木よりも煉瓦である。煉瓦造りは丈夫な建物の代表だったが、今やノスタルジックでおしゃれなイメージが売りになり、「近代化遺産」とまで呼ばれるようになった。
本ブログでも、かつて「横浜赤レンガ倉庫」をレポートし、煉瓦建築の魅力を紹介したことがある。今回は煉瓦建造物が約120件もあるという赤煉瓦の聖地を訪ねる。向かうは舞鶴だ。
舞鶴市北吸(きたすい)に「舞鶴旧鎮守府倉庫施設」がある。舞鶴には、横須賀、呉、佐世保と並んで鎮守府が置かれていた。
舞鶴鎮守府の設置は明治34年で、初代司令長官は東郷平八郎であった。この時期に日本海に面して海軍の拠点が築かれたのには訳がある。
日本海を挟んで我が国と隣り合っている国はどこか。そう、ロシアだ。日露戦争はいつ始まったか。明治37年である。
実際に舞鶴は出撃基地として重要な役割を果たした。有名な戦艦三笠の母港も舞鶴だ。舞鶴を軍事拠点化した海軍のヴィジョンは的確だったと言えよう。
とはいえ、写真の赤煉瓦は倉庫であり、ここに東郷司令長官がいたわけではない。建物の名称を写真を使って紹介しよう。
左が「旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫」である。今は赤れんが3号棟と呼ばれている。右は「旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫」で、赤れんが4号棟である。そして奥に見えるのが「旧舞鶴海軍軍需部第三水雷庫」、赤れんが5号棟である。3号棟と4号棟は明治35年建築の国指定重要文化財で、5号棟は大正7年の建築で附(つけたり)指定となっている。
レールのある珍しい倉庫がある。「旧舞鶴海軍軍需部第二水雷庫」である。先述の倉庫と同じく、明治35年の建築で国指定重要文化財となっている。
レールは軍港引込線として明治37年に開設され、当時の新舞鶴駅(現・東舞鶴駅)への接続により軍事物資の輸送が行われていた。倉庫の中に貨車が入って荷の積み降ろしができるところが特長で、言わば貨車のドライブスルーである。
公共建築物の耐震化は喫緊の課題であり、各地で補強工事や建て替えが進められている。そんな中、揺れに脆弱な煉瓦は、もはや装飾以外に使用されることはないだろう。だからこそ、文化財として貴重で、意匠としても優れた現存の煉瓦造建築の意義を再確認したいものだ。
しかし、見た目の美しさや観光地ならではの華やかな雰囲気にのまれて本質を見失ってはならない。ここは軍事基地だったのだ。近くには海軍工廠があり、軍需産業の一大工業地帯となっていた。当時の舞鶴町が大正12年に発行した『新舞鶴案内』には、その様子が次のように描かれている。
大空をおほふ黒煙、諸機械類の運転する響、ハンマーの音など恰も天も地も揺ぐかのやうに響く。更に工場内に入れば戦場のやうな大活動である。みてゐるのみでも、機械に捲き込まれはしないかと思ふ位。この間を各職員職工はそれぞれ任務に励んでゐる。
舞鶴海軍工廠は、昭和20年7月29日、30日に米軍の空襲を受け、学徒動員の生徒を含め180人が亡くなった。原爆を模した大型爆弾も投下されたという。空襲をくぐり抜けた赤れんが倉庫には今、軍艦に積載する武器弾薬ではなく、旅する人々に提供する思い出が用意されている。
赤煉瓦を前にして感じるノスタルジーは、いったい何なのだろう。かつての海軍の栄光を追っているのか、それとも赤煉瓦建築が自ら放つオーラなのか。そんなことを考えること自体が、平和であることの証左なのだろう。
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