今はないエリー卜校に、海軍兵学校と海軍機関学校がある。志願できるのは15歳以上19歳未満の者で、学歴は不問だった。ただし、旧制中学4年1学期修了程度の学力を必要とする学術試験が課せられていた。倍率はたいへん高く、20倍を超えることもあったようだ。
江田島市江田島町国有無番地に「旧海軍兵学校生徒館」がある。現在は海上自衛隊第1術科学校幹部候補生学校庁舎として活用されている。
写真はお土産に買った「兵学校のカレー」だ。パッケージに写る赤煉瓦の建物も実際に撮影したのだが、データを失ってしまった。このレトルトカレーは一番人気のお土産だそうで、「旧帝国海軍の指定工場」で作られているという。
製造者は大阪市のハチ食品株式会社である。ホームページによると、弘化二年創業という老舗で、昭和17年に「旧帝国海軍の指定工場となる」ということだ。海上自衛隊では週末にカレーを食べる習慣があるが、これは旧海軍以来の伝統だそうだ。
カレーではなく、赤煉瓦で風格のある「旧海軍兵学校生徒館」の話をしよう。設計はイギリスの建築家、ジョン・ダイアックである。彼は我が国の鉄道敷設の初期に活躍したお雇い外国人として知られ、横浜外人墓地にある墓は「準鉄道記念物」に指定されている。
写真では伝わらないが、赤煉瓦が肱しいまでに美しく、最近の建築かと見間違えるほどだ。しかし驚くことに、明治26年(1893)の竣工である。煉瓦は古くなると劣化が進むが、この建物がきれいなのは、高品質の英国製煉瓦だからだそうだ。
山本五十六や米内光政、井上成美など、著名な海軍軍人はすべて海軍兵学校の卒業生である。井上は昭和17年から19年に兵学校の校長を務めている。当時、英語は敵性語として社会から排除されていたが、教育者としても高い識見を備えていた井上により、兵学校の英語教育が廃止されることはなかった。
海軍兵学校がエリー卜将校の本道であるのに対して、海軍機関学校はエンジニアの養成である。「飛行機王」と呼ばれた実業家で、政治家としては鉄道大臣などを務めた中島知久平は、海軍機関学校の卒業生である。彼が卒業した明治40年当時、機関学校は横須賀にあり、舞鶴に移転するのは大正14年である。
舞鶴市余部下(あまるべしも)に「旧海軍機関学校大講堂」がある。現在は海上自衛隊舞鶴総監部海軍記念館として、一般の見学に供されている。
こちらも美しい建物で古い建造物には見えない。赤煉瓦に似た色をしているが、スクラッチタイル貼りである。昭和8年に建築された。
その昭和8年、10月30日午後12時45分、昭和天皇が海軍機関学校に行幸あらせられた。天皇を乗せた車が大講堂の車寄せに停まった。天皇が生徒をはじめ関係者を親閲された場所が今も残っている。
単に記念に保存されているのではない。舞鶴地方隊の儀式が行われる現役の大講堂である。ただし戦後、米軍に接収されてダンスホールとなり、舞台はバンドのステージとして利用するため、一段高く改装されたそうだ。
以上のように、旧帝国海軍関連の建物が今も残っているだけでなく、海上自衛隊によって活用されている。旭日旗も海軍時代と同様に使用されている。
帝国陸海軍と自衛隊は法的には断絶している。しかし、以上のように施設や伝統は継承しているのだ。今や国際紛争に耐えうる実力も備えており、実質的に我が国の軍隊となっている。
さて、最後に舞鶴で入手した本『海軍割烹術参考書』(NPO法人赤煉瓦倶楽部舞鶴)のあとがきの一文を紹介しておこう。
本の中には、「ローストビーフ」や「シチュー」、「コロッケ」、「プリン」など、おそらく明治時代の庶民が口にすることが少なかったと思われるメニューが多数紹介されており、海軍鎮守府の開庁は、舞鶴というまちに、都市の近代化だけではなく、「ハイカラ」な文化も広めたことに気付かされました。
このようなハイカラ料理として、海軍で生まれたのが「肉じゃが」である。材料としては「カレー」とも共通項がある。素材と調味料が織りなす絶妙なハーモニーが魅力だ。
肉じゃが発祥の地は、舞鶴だとも呉だともいう。どちらも海軍の鎮守府があった。同じく鎮守府のあった横須賀はカレーの街として有名だ。
帝国海軍の施設や伝統は海上自衛隊が受け継ぎ、そして軍艦の厨房で作られていた料理は今、地域おこしに貢献しているのである。
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