auのCMで桐谷健太扮する浦島太郎、浦ちゃんが「海の声」を唄っていた。いい声で実にカッコいい。桃太郎、金太郎とともに三太郎と呼ばれているが、昔話として最も歴史が古いのは浦島太郎である。
浦島太郎は亀に乗って竜宮城と浜辺を往復する。イラストでも亀に乗る姿が描かれることが多い。本日は浦島太郎のモデルの一人を紹介することとしよう。
宮津市字大垣の元伊勢籠(もといせこの)神社の境内に「倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)」の像がある。auの浦ちゃんのように坐っている。
姿は浦ちゃんではなくて、神様のような方が亀に乗っている。この人はいったい何者なのだろうか。まずは神社が設置した説明板を読んでみよう。
倭宿禰命
別名・珍(うづ)彦・椎根津彦・神和津彦
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖
神武東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う。(後略)
説明文を書いた現在の宮司さんは82代目というから、まことに由緒ある宮司家である。倭宿禰命は宮司家4代目であるだけでなく、我が国の建国に重要な役割を果たした。しかも、亀に乗って登場するという華々しいデビューである。『古事記』(中巻)の関係部分を読んでみよう。
故(かれ)其の国より、上り幸(いでま)す時に、亀甲(かめのせ)に乗りて、釣為(し)つつ、打ち羽挙(はぶ)り来る人、速吸門(はやすひなど)に遇(あ)ひき。爾(かれ)喚(よ)び帰(よ)せて、汝(いまし)は誰(たれ)ぞと問はしければ、僕(あ)は国神(くにつかみ)、〔名は宇豆毘古(うづびこ)〕と答曰(まを)しき。又汝(いまし)は海道(うみつち)を知れりやと問はしければ、能(よ)く知れりと答曰(まを)しき。又従(みとも)に仕へ奉らむやと問はしければ、仕へ奉らむと答曰(まを)しき。故(かれ)爾(すなは)ち槁機(さを)を指し度(わた)して、其の御船(みふね)に引き入れて、槁根津日子(さをねつひこ)といふ名号(な)を賜ひき。此(こ)は倭国造(やまとのくにのみやつこ)等が祖(おや)なり。
カムヤマトイワレビコが吉備から大和に向かっている時に、亀に乗って釣りをし、袖をはためかせている人に、明石海峡で出会った。呼び寄せて「おまえは誰か?」と尋ねると「私は地元の者で、名をウヅヒコといいます」と答えた。「お前は大和への航路を知っているか?」と尋ねると「よく知っております」と答えた。さらに「私に付き従わないか」と誘うと「従いますとも」と答えた。そこで、棹を差し伸べて船に乗せ、サオネツヒコという名を与えた。彼は倭国造らの先祖である。
何事にも水先案内人がいたほうが安心だ。現在も、港湾や狭い海域などで外国船を安全に誘導する「水先人(みずさきにん)」という職業がある。海域の特徴を熟知していることに加え、操船技術や語学力、危機管理能力など、高度な能力が要求される。
ウヅヒコは亀を操るほどの高度な技術を有しているのだから、かなり優秀な1級水先人なのだろう。カムヤマトイワレビコはよい人に出会ったものだ。神武東遷の陰の立役者は実に、ウヅヒコその人であった。
さて、気になるのはウヅヒコを乗せていた亀だ。主人が船に乗り移った後、亀はどうしたのだろうか。亀のその後を求めて瀬戸内を旅すると、こんな所にいるではないか。
岡山市東区水門町に「亀石(かめいわ)」がある。
亀が海に帰っていくかのようなこの岩には、次のような言い伝えがある。岡山市遺跡調査団『岡山市の歴史みてあるき』から抜粋しよう。
そのむかし、神武天皇がご東征の時、大亀に乗った神様があらわれ、水先案内をつとめたという話が「古事記」にある。その亀が化石となったのが亀石といわれる。(神社由緒)
つまり、ウヅヒコの亀が化石となって祀られているのだ。同じ瀬戸内海に亀に似た岩があったから、こうした伝説が生じたのだろう。見れば見るほど亀に見えてくる。人は見たものを認識するのに、自らの経験を活用する。亀のイメージが脳裏にあるからこそ、自然の造形も亀に見えるのだ。
ともあれ、我が国の建国に一役買った亀だ。今の日本があるのも亀さまのおかげと、いついつまでも感謝したいものである。
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