足利将軍家で天寿を全うした人物は幾人いるのだろうか。殺害や夭折など尋常でない死のほか、働き盛りでの病死も多く、天下の将軍家にしては気の毒な終焉の人が多い。
また、一族の内訌もたびたび起きている。なかでも南北朝期の「観応の擾乱(じょうらん)」という聞き慣れない歴史用語で言い表される争いは、その内容も複雑で難解だ。分かりやすく擬態語で表現するなら「ぐだぐだ」である。
安芸高田市美土里町生田智教寺(いけだちきょうじ)に「天下墓」がある。
広島県道・島根県道6号吉田邑南線の道沿いで県境の手前に位置する。写真の遠景は島根県で、丘の向こうには安芸と石見の国境碑がある。
「天下墓」とは大きく出たものだ。天下人が葬られているというのか。説明板があるので読んでみよう。
重要伝説地 智教寺天下墓
この墳丘は室町幕府第十五代将軍足利義昭の墓所と伝える。
天正元年将軍義昭、織田信長と争い京都を追放され室町幕府滅亡、毛利氏を頼り備後鞆の津に来たり数年滞在の後、毛利氏とも不和を生じ出雲の尼子氏を頼って山陰に向う途中この地に病み山陰行きを断念、智教寺を建立して住すること数年、ここにて逝去、この地の住民火葬地に墓を建て、天下墓と称す。
(文政二年国郡志書出帳生田村に拠る)
平成二年十月 美土里町観光協会
ほう、足利義昭の墓だという。信長が登場する大河ドラマによく登場し、体面に固執するヒステリックな公方さま、のようなキャラである。確かに天下の将軍様だが、天下人なら信長のほうがふさわしい。
義昭は京都追放の後、テレビ画面でも見かけなくなるが、毛利氏とともに備後鞆津で頑張っていた。しかし、秀吉の権力が確立すると京都へ帰り、秀吉の御伽衆となって大坂で亡くなった。敵対した信長の最期に比べると、平和のうちにこの世を去ったと言えよう。
改めて説明板を読むことにする。鞆津に滞在したところまではよい。その後、毛利氏と不和となり、尼子氏を頼ろうとして山陰に向かう途中病に倒れ、この地に留まり亡くなったという。
この地で亡くなったというのも不審だが、尼子氏は義昭が将軍になる前に滅亡しており、頼りにすることなどありえない。では、「天下墓」に眠るのは誰か。
そこで、浮上したのが足利直冬だという説である。直冬は尊氏の子でありながら、父から認知されないという気の毒な成育歴をもつ。尊氏の実弟直義が引き取って養子とし、立派な武将に育て上げた。
やがて尊氏と直義の兄弟は対立し、これに南朝がからんで、和睦と離反を繰り返すことになる。これが観応の擾乱である。直義のもとで活躍した直冬は、直義の死後も尊氏に対抗し、文和四年(1355)には京都を奪う。
それも束の間のこと、尊氏勢に敗れた直冬は、勢力を築いていた安芸と石見の山間部へ退く。応安元年(1368)、直冬が石見吉川氏の経兼(つねかね)に大朝新荘の地頭職を与えたと記録にあるから、やはり直冬はこのあたりに隠棲していたのだろう。
足利義昭の墓だと伝えられた天下墓。墓の主が義昭でないとすると、この地方にゆかりがあり、天下を狙った直冬がふさわしい。彼の没年は一説に応永七年(1400)だという。ぐだぐだな乱世を生き抜き、閑かな山間で静かに天寿を全うしたのかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。