テレビドラマ「JIN‐仁‐」のタイトルからも分かるが、「医は仁術」である。人の命を救うことは即ち、最高の徳である「仁」を施すことである。とりわけ江戸後期の蘭学の隆盛は、我が国の医学の発展に多大な貢献があった。
今日は、南方仁が迷い込んだ時代から一世代さかのぼり、天保の頃を訪ねよう。蘭方医にして儒者、さらには優れた経世家でもあったという人物のお話である。
宮津市由良の由良神社の境内に「新宮凉庭(しんぐうりょうてい)顕彰碑」が建立されている。
新宮凉庭、爽やかな印象の名前だ。しかし、寡聞にして知らない。碑の揮毫は、長く日本医師会長を務めた武見太郎である。武見は知っている。その辣腕から天皇とも呼ばれた武見、彼が顕彰したのは、どのような人物か。銘板を読んでみよう。
新宮凉庭、名は碩、駆豎斉或は鬼国山人と号し、徳川中期に最も傑出した儒医であります。天明七年三月十三日丹後の由良に生れ、青年時代蘭学に志して長崎に赴き通詞吉雄永保の塾に学び、ついで当時の蘭館長ヅーフにみとめられ、蘭医フェールケ及びバテイに師事して学殖が豊かになり、帰国後京師に開業して当代随一の流行医と称せられるようになりましたが、此間蓄積した巨万の財を有意義に散ずべきことを心得、「良医は国の病を治す」と云う抱負の下に経国済民の大業に手をつけ、当時打ち続く凶作のため全国到るところ餓莩が路に横たわるといった状態であっても、各藩の財政が疲弊の極に達しているため救拯の挙に出でないのを見た凉庭は、起って諸藩侯に済生治民の策を献じ、先づ旧恩深き牧野家領下士民のため金穀を贈ること数度、ついで盛岡・福井両藩の請によってその財政を整理し、諸藩の学費を献ずるほか京都東山に私学順正書院を営んで後学の指導につとめました。後この順正書院に出入した一條相公、久我亜相、出石、鯖江、宮津、綾部などの藩侯、その他篠崎小竹、頼三樹、斉藤拙堂、梁川星巌、藤井竹外などの文人墨客の作品を集めて「順正書院記」及び「順正書院詩」が刊行されています。また凉庭の著書として知られているのは医術関係では「窮理外科則」「泰西疫論」「療治鎮言」「人身分離則」「外薬則」「外用方符」「解体則」「血論」「小児科書」「婦人科書」文芸その他に関するものには「西遊日記」「但泉紀行」「駆豎斉文鈔」及び詩鈔其他数種ありますが特に有名なのは「破れ家のつゞくり話」の上中下三巻であります。嘉永六年秋から宿痾漸く重く、翌安政元年一月九日六十八年の寿を京師に終え、遺骸は、南禅寺天授庵に葬り「順正院新開凉庭居士」と諡しました。大正四年先生生前の功により正五位を追贈されたのであります。
凉庭は当代随一の流行医として名を馳せ、人のみならず国の病をも治そうとした名医だった。そんなところが武見の心に響いたのかもしれない。
凉庭が開設した順正書院は、大坂の適々斎塾(あの緒方洪庵の塾!)、佐倉の順天堂(あの順天堂大学の源流!)と並ぶ蘭方医学の学問所として知られていた。天保十年(1839)建築の建物は今も残り、国の登録有形文化財となっている。
「経済」の語源は「経国済民」もしくは「経世済民」という言葉だが、国を治め民を救おうとした凉庭の志はまさにそこにあった。倹約に努めて財政を健全化し、社会の安定を図るよう提言した。
彼の著書は医学書や文芸書などたくさんあるが、有名なのは『破れ家のつゞくり話』という政策論集である。ちょっと変わったタイトルだが、財政再建のような意味合いだろう。「国益は農業産業を勧むるにあるを論ず」に次のような一節がある。
さて家中小禄のもの妻女などへは、必らず産業を教ゆべし。心得ちがひの士人、やゝもすれば士たる者産業を営むは、庶民と同様などと云ひなし、恥とおもふ族もあれども、産業は人たるの道と、孟子にも述べられたり。本朝にては、その昔し天子の御后御手づから蚕を御飼ひありし例もあり
武家の女性に何かつくることを教えるべきだ。武士が庶民と同じように働くなんぞ恥だという人がいる。それは違う。産業は人の生きる道だと『孟子』に記されているし、皇后さまでさえご養蚕されたというではないか。
女性の就業促進により労働参加率を向上させ、希望を生み出す強い経済をつくりだすのである。まさにアベノミクス、「ニッポン一億総活躍プラン」なのだ。
丹後由良は凉庭の出身地である。この地を楽しんだ後は、凉庭の学問所「順正書院」を訪れるとよいだろう。そこは今、「南禅寺順正」という湯豆腐屋さんとなり、上品な料理と贅沢な時間を味わうことができる。凉庭は今も、人々の心とからだを癒してくれている。
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