日本三大仇討ちとは、忠臣蔵、伊賀越、そして曽我兄弟である。うち最も古いのは曽我兄弟で、建久四年(1193)5月28日の出来事である。曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟は、父の仇である工藤祐経(すけつね)を討ち果たした。兄弟の父河津祐泰(すけやす)は、所領争いにより工藤の郎党に殺害されていたのである。兄弟は目的を果たしたものの、兄十郎は討ち取られ、弟五郎は捕らえられて処刑となる。
兄の十郎には、虎御前(とらごぜん)という恋人がいた。十郎の死を聞いた虎の涙は、毎年5月28日(旧暦)になると、雨となって降ったそうだ。これを「虎が雨」という。歌川広重の『東海道五拾三次』のうち「大磯(おおいそ)」で描かれている雨がそれである。
安芸高田市美土里町北(みどりちょうきた)に曽我神社が鎮座している。
祭神は「大磯の虎御前」である。虎御前は、伏見大納言実基(だいなごんさねもと)の娘で、伊豆大磯の長者の養女として成長した。容姿端麗にして歌道に優れ、その舞に武将たちは感嘆の声をあげたという。
虎に心惹かれた十郎は、熱心に通い詰める。その一途な思いに心動かされた虎は、現世のみならず来世までをもお慕いしますと誓う。だが、非情の運命は上記のとおりで、十郎の死後、虎御前は出家したのであった。
今日は、その後の虎御前のお話である。東国から各地を遍歴し、安芸国にやってきたという。地元の方が記された説明板を読んでみよう。
是より、当地の古老に依る云い伝えを記述する。
年歴不詳、此の地雁子原に高貴な尼僧数人の供人と訪れ居寓、尼僧は才覚に優れ、心温かく慈愛深く法を説き、文字倫理等、懇に教え郷民は只管崇拝し、お慕いする。時は過ぎいつしか、兄弟と虎御前の名聲世に知れるや、郷民は尼僧が虎御前と知り慌て驚き虎御前の来郷を喜び、誇りとし、一層の感謝と尊敬の誠を捧げた。
幾歳月経てか、虎御前は皆に立穴堀りを望まれる。自からの寿命を覚られしか、己僧は穴中(けっちゅう)にて此の世の暇(いとまごい)の供養読経を唱え奉る。三日三晩にて、読経の聲と錀(りん)の音絶えれば、己僧成佛せしと知るべしと云い給い穴中に座す。一同号泣、伏し拝み人徳を偲び成佛を祈る。果して、尊言通り聲音絶え、拝み見れば右手に錀棒左手に錀を奉持され、正座の姿は正に神か佛の御姿と一同恐懼感涙手篤く弔い、御姿のまゝ埋葬墓とし、御自歿(じぼつ)の永久のしるしとして、石を積み塚とし、人徳の貴きを稱え世の鏡として、且當地への御貢献を謝し、御魂を敬い神と奉り、社を建立し、末代迠祭り伝える當地の守護神曽我神社也。(古老より伝承)
尚、遺品として金製の御幣と、一度沸かせば、三日は冷めぬと云う不思議な茶釜が有った由、何れも現存しない。
村にどこからか高貴な雰囲気の尼僧がやってきた。尼僧は村人に人の道を説き、村人は信仰で応えた。その尼僧とは誰あろう。かの有名な虎御前であった。時を経て、虎御前は土中に入り、読経しつつ生きながら仏となったということだ。一種の貴種流離譚であり、入定(にゅうじょう)信仰である。その入定塚がこれである。
曽我神社の右手から少し北に行くと「大磯の虎御前御自歿之墓塚」がある。幾歳月を経ているのか、積まれた石は苔むし、塚から生えた木が大きく成長している。おそらく今も虎御前は、りんを鳴らす姿でこの地を守護しているのだろう。
実は、虎御前の墓と称するものは全国にある。どうやら箱根山を根拠地とする廻国の巫女によって流布された伝説らしい。仮にそうであっても、虎御前の物語は印象に強く残る。会者定離の前半生、信仰に生きた後半生。人生に見られる鮮やかな動と静が、聞く人の心を動かすのだ。
利七屋孫兵衛さま いつもありがとうございます。仇討ちは昔も今も日本人が好きなテーマですね。やられたらやり返す。倍返しだ!そんな思いに通じるものがあるような気がします。
投稿情報: 玉山 | 2016/04/21 19:24
懐かしいですねぇ。小学生の高学年の頃、東映映画「曽我兄弟富士の夜襲」(だったと思いますが)を観ました。
投稿情報: 利七屋孫兵衛 | 2016/04/20 23:02