生まれてこの方、水道水育ちで、井戸水を汲んだことがない。もっとも干拓地暮らしだから、どの家にも井戸がない。井戸でスイカを冷やしたとか、井戸の幽霊に肝を冷やしたとか、井戸のある生活をしたことがない。
しかし、「紀行歴史遊学」では井戸を数多く紹介している。井戸と史跡は近しい関係にあるようだ。今回のレポートは菅原道真ゆかりの井戸である。
高砂市伊保三丁目に「渚(なぎさ)の井(い)」がある。
この井戸は高砂市教育委員会が独自に制定した「高砂市ふるさと文化財」の第1号として平成23年に登録されたものである。説明板を読んでみよう。
平安時代に、菅原道真が大宰府へ左遷されるときに立ち寄り、この井戸水で手を洗われたという。
かつては海岸線であったことから、渚の地名が残されたと伝わる。
現在の伊保小学校の前身は渚井(なぎさい)小学校であった。
高砂市立伊保小学校は、明治10年に創立され同20年に改称されるまでは、「渚井小学校」だった。地域の人々は貴重な井戸水を大切に利用し、井戸は地域のシンボルとなっていたのだろう。そう考えながら歩いていると、また「渚の井」があった。先ほどの井戸から少し北のほうである。
伊保三丁目の若宮神社の前に「渚(なぎさ)の井(いど)」がある。実際の井戸ではなく、井戸枠が保存されているだけである。
こちらの井戸が優れているのは、説明板が詳しいことだ。読んでみよう。
菅原道真公が西下のとき(西暦九〇一年)伊保の湊に上陸され、加茂神社参詣の途中に、この井戸で手を洗われたという伝説があります。当時は、湊の一隅にあったので「渚の井」と呼ばれてきました。昔は、清水が湧き出し、「加茂条」といわれたこの地の人々に広く使用されていました。
明治五年に初めて小学校が建てられ、渚井小学校と名付けられた史実も残っています。
また、中部屋台の名称が今も「渚」になっているのは、この「渚の井」に起因したものです。
もとは、百メートルほど東南(伊保崎一、二七九番地)にありましたが、由緒あるこの文化史跡を、後世に伝えるため、仮にこの地に移し、保存することとしました。
平成十年四月二十九日 渚の井保存会
加茂神社は今、高砂市竜山一丁目に鎮座しているが、かつては伊保三丁目の真浄寺の西隣にあったという。とすれば、道真公が井戸で手を洗い加茂神社に参詣するのも自然なルートになる。
明治5年の学制発布により各地に小学校が設立された。この地区には、松東、竹林、南陽、渚井、琴州の各小学校ができたが、明治10年に渚井小学校に統合された。
中部屋台とは、曽根八幡宮の秋季大祭などに勇壮に練り出す豪華な屋台である。曽根八幡宮は道真公ゆかりの神社だから、「渚の井」の菅公伝説も何らかの関係があるのかもしれない。
西暦901年に菅原道真が、「渚の井」で手を洗った。それを史実と証明できる証拠はおそらくないだろう。しかし、地域の人々に長くそう信じられ、今もなお地域の誇りとされているのは事実である。実に「ふるさと文化財」にふさわしい井戸ではないか。
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