世界遺産・石見銀山のバスの運転手さんは親切だ。大森代官所跡でバスを降りるとき、「自転車は絶対、借りた方がいいよ」とアドバイスしてくれた。観光マップを手に入れ準備万端だったが、自転車の必要性までは感じていなかった。
ま、ここは地元の方の言うようにするのが無難と思い、自転車に乗って銀山地区を目指した。見れば電動アシストに乗ってる人も多い。これが実に正解! ひたすらの坂道だったのだ。
大田市大森町に「史跡石見銀山遺跡 龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」がある。石見銀山では大久保・本・龍源寺・新横相・釜屋・新切・福神山の7つの坑道が国指定史跡となっている。このうち唯一常時公開されている坑道が龍源寺間歩である。
間歩の入口右上にある「500」という数字は間歩番号である。石見銀山には、水抜き、通気、試掘を含め600以上の間歩があるという。
龍源寺間歩は、正徳五年(1715)に代官所直営のもとに開発され、大久保間歩に次ぐ大坑道だった。明治になって藤田組により再開発されたが、昭和18年に閉山となった。受付でいただいたリーフレットには次のように記されている。
当時の間歩の入口には、四ツ留番所が置かれ、右側に役人詰所、左側に鏈(くさり)置場(銀鉱石置場)があって、坑道内は厳重に見張られていました。
周辺に見られるシダは、ヘビノネゴザというオシダ科のシダで、貴金属を好む性質を持ち、金銀山発見の手がかりになったと言われています。
四ツ留とは坑道の入口のことで、ここに管理事務所や作業場があったということだ。面白いのは「ヘビノネゴザ」というシダである。「貴金属を好む性質」ってどんだけ贅沢な植物なんじゃい。調べると、必ずしも貴金属というわけではなく、鉛、銅、亜鉛、カドミウムなどの重金属を吸収する性質があるそうだ。
龍源寺間歩からの帰り道は下り坂なので、ゆっくりと町並みを楽しみながら進むとよい。所々に銀細工だとかカフェなどのおしゃれな店もある。写真のあたりは国史跡指定範囲ではないが、重要伝統的建造物群保存地区である。
赤い丸ポストは昭和レトロだから、江戸時代はおろか明治にも大正にも関係ない。したがって銀山の繁栄とは無縁だが、町並みのアクセントとしては極上である。
先述のリーフレットには、こんな記述もある。
16世紀半ばから17世紀はじめには、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が、石見銀山で産出されたものだったと考えられています。
なるほど、世界遺産に登録されたのもうなずげる。大航海時代を支えたのは石見銀山だったということか。石見の銀は今、どのような形で誰が所有しているのだろうか。
当時の銀は明に向けて輸出されていたというから、今ごろは中国の富裕層が持っているのかもしれないし、清とインドとイギリスの三角貿易を通して世界中に広がっているのかもしれない。
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