パリにブリュッセル、イスタンブール、そしてダッカで起きたテロ、これらの出来事に何の違いがあろうか。いずれも非道で許しがたい行為だ。パリ同時多発テロではFacebookのアイコンをトリコロールに変えることが流行ったが、ダッカテロの追悼の動きが世界的に拡散することはない。先日はバグダッドで、さらに大きなテロがあったというが、報道の扱いは小さい。
すべては、情報の発信力や受け手の関心の度合いによる差異なのだろう。かくいう私もこうして小文をつづって嘆じるのみである。
ずいぶん昔、我が国にも戦乱で多くの人が無残に死んだ時代があった。そんな世の中を少し離れたところから西行法師が見つめていた。
大阪府南河内郡河南町弘川の弘川寺(ひろかわでら)に「西行墳」がある。立派な円墳で、墓碑には「西行上人之墓」と刻まれている。
傍らの説明板には次のように記されている。
西行(円位)上人は晩年空寂座主の法徳を慕って登臨され、文治六年二月十六日七十三歳当寺において入寂されました。
文治六年は西暦では1190年、大河ドラマ『平清盛』で藤木直人が演じたように、西行の生涯は平氏の台頭から滅亡という激動期と重なる。ドラマ最終話で藤木西行は、岡田将生の頼朝の前で歌を披露した。その歌がこれだ。
花の歌あまた詠みけるに
願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ
「山家集」巻上春77
ああ春は桜やな。どうせなら、こんなきれいな花の下で、二月の満月のころに、往生を遂げたいもんや。
生死の境界が恐怖に満ちているよりも、桜を愛でているうちに「あれ、ここ極楽じゃん」と、いつのまにか来ちゃった、みたいなのがいい。死は誰にも避けられない。今も昔も、生ける者みな幸せな死を願うのである。
西行法師がすごいのは、生前の願いと2月16日に亡くなるという実際が一致したことである。本当なのか。西行ほどの人物になると様々な伝説が生じる。命日はよく分からないが、あの歌の通りになったことにしておこう。そんなことも、ありうるのではないか。
そこで、命日2月16日説の根拠を調べた。同時代の歌人に藤原俊成がいる。西行の「山家集」と並び称される私家集に俊成の「長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)」がある。その中に次のような記述があるのだ。
其年文治河内のひろかはと云ふ山寺にて煩(わづら)ふことありと聞きて急ぎつかはしたりしかば限(かぎり)なく喜びつかはして後すこしよろしとて年のはての頃京にのぼりてと申しし程に二月十六日なむかくれ侍りける
文治五年、河内の弘川という山寺で西行法師が病に倒れていると聞いて、急いで使いを送ると、とても喜ばれた。それから少し快方に向かい、法師は年末には「京に上ろう」と言っていたところ、2月16日にお亡くなりになった。
西行の墓は、江戸時代中期に似雲(じうん)という歌僧によって「発見」された。似雲自身もこの地に眠り、西行墳よりも小さな「似雲墳」が築かれている。塚の上に「似雲法師之墓」と刻まれた墓碑が置かれている。
似雲は「今西行」とも呼ばれるほど、熱心なファンであった。寛政年間に刊行された伴蒿蹊(ばんこうけい)『近世畸人(きじん)伝』巻之四「僧似雲」の項には、次のように記されている。
されば此の上人の墓所さだかならぬを歎きて、石山の救世菩薩に祈り、其の霊告によりて、河内国弘川寺をもとめ得たり。そこにて唯(たゞ)行塚(ぎやうづか)といひならはして、其の由(よし)も定かならざりしを、石のしるしを建て、はた其の寺に有りける肖像をも捜し出でて堂を造立し、自らも山中に庵を結びて住めり。
似雲は西行法師の墓所が不明なことを残念に思い、石山の救世菩薩に祈り、そのお告げによって河内国弘川寺にあることを知った。ただ「行塚」と呼ばれるだけで、その由来もよく分からない塚に、墓標を建てた。寺の中から肖像も見つけ出し、お堂も建てて自分もここに住んだ。
似雲の「発見」については、少々懐疑的に記述されている。大丈夫なのか。しかし、藤原俊成「長秋詠藻」の記述が決定的な証拠だから、弘川寺で西行法師が亡くなったのは間違いないだろう。
と思ったら、「年のはての頃京にのぼりてと申しし程に」を「法師が年末に京に上ったとある人が言っていたところ」とする解釈もあるようだ。とすると、法師は京で亡くなったことになる。そう解釈しているのが『大日本史』225巻「佐藤義清(西行)」伝である。
建久元年二月十六日卒于京師(けいし)
建久元年(文治六年、1190)2月16日に京で亡くなった。弘川寺入寂説が揺らいできた。では、京都入寂説ならば、そのどこで亡くなったというのか。鎌倉時代に成立した『西行物語』「西行東山双林寺に住事」には、次のように記されている。
御堂のみぎりに桜をうへられたりけるに、おなじく此花ざかり、釈迦入ねはんの日、二月十五日のあさ往生を思ひてかくなん、
ねがはくは花のもとにて春しなんそのきさらぎのもち月の比(ころ)
すでに此歌のごとく、建久九年二月十五日、正念たゞしくして、西方にむかひて、
若人散乱心 乃至以一花 供養於画像 漸見無数佛 於此命終即 住安楽世界 阿弥陀仏大菩薩衆囲撓住所とゝなへて、
ほとけにはさくらの花をたてまつれ我後の世を人とふらはゞ
とながめて、千返念仏やむ事なく、空に伎楽のをとほのかに、異香とほくんし、紫雲はるかにたなびきて、三尊来迎のよそほひ、しやうじゆくはんぎのぎしき、万民の耳目をおどろかし往生のそくはいをとげにけり。
建久九年(1198)2月15日に京都東山双林寺で亡くなったという。「建久九年」は「建久元年」の誤写、「2月15日」は釈迦入滅に合わせて1日早められた、とする解釈が一般的だ。今、双林寺には西行法師の「供養塔」があるが、「墓」とは考えられていない。
京都を離れて西行の墓を探すと、岐阜県恵那市長島町中野鳶ヶ入には、県指定史跡の「伝西行塚」がある。地元にはここに葬られたとの伝説が残っている。
さらに、『高野山其附近と案内記』(今井金陵、大正11)という本では、和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売(にうつひめ)神社周辺の史跡が紹介されているが、「有王丸の墓」の説明に続いて、次のような記述がある。
それから四町許りの所に西行法師の墓がある。法師は承安年中蓮華乗院造営の奉行として専ら高野山に住ひ、晩年こゝに移り妻子も来り尼となって共に住んだ、法師は建久元年十二月十四日遷化した。法師及び妻子三人の墓がある。
今、かつらぎ町天野地区には、「西行妻娘の宝篋印塔」があり、石造宝篋印塔として県指定文化財となっている。それとは別の「妻娘の墓」もあるが、西行自身の墓があるという説明はない。
西行法師の墓は、実のところよく分からないが、弘川寺のような山深い場所がふさわしいように思える。渦中にいるよりも、少々高みに登っているほうが、世の中は見えてくるものだ。
源平の争いが激しかった頃であろう。法師は次のような詞書を残している。(「聞書集」225)
世の中に武者おこりて、西東北南いくさならぬところなし。うちつづき人の死ぬる数きく、おびただし。まこととも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。
何百年も前の言葉に聞こえない。人が死んで何が生まれるというのか。西行法師は今の私たちをも叱咤しているに違いない。