とりわけ気の毒な戦国大名は「今川義元」であろう。志村けん演じるバカ殿のように描かれるのに対し、敵の信長は常にイケメンである。これではヒーローを引き立てるための悲しきバイプレーヤーだ。
しかし、義元は分国法「今川仮名目録」を整備し、安定した領国経営を行った。武田信玄や北條氏康と並ぶ戦国大名の典型として、もっと高く評価されてしかるべき人物である。
大河ドラマ『おんな城主直虎』では、屈指のエンターテイナー、春風亭昇太が義元役だ。家格の高い大名らしく堂々と演じていただきたい。桶狭間で討ち取られるシーンも見どころとなろう。
本日は、義元が無念の死を遂げた桶狭間古戦場を紹介する。
豊明市栄町南舘の道路脇に一本の枯木がある。道にはみ出しているので、赤いコーンを置いて通行に注意を促している。これが「駒つなぎのねず」である。
永禄三年(1560)5月19日、沓掛城を出発した今川義元は、運命の桶狭間に至り、写真のねずの木に馬をつないだ。
豊明市栄町南舘の香華山高徳院に「今川義元公本陣跡」の石碑がある。
この本陣に構えていた義元は、松平元康(後の徳川家康)率いる今川勢が織田方の鷲津砦と丸根砦を攻略したことを聞き、上機嫌となって謡曲を3回歌わせた。
ところが、俄かに天候が急変し、激しい暴風雨になり、今川勢の態勢はすっかり乱れてしまった。チャンスをうかがっていた織田勢が、天候が回復するや一斉に攻撃すると、今川勢は反撃どころか、義元を乗せる輿(こし)をも捨てて逃げ出す始末だった。
午後二時ごろ、態勢を立て直した今川勢は一丸となって義元を守ったが、織田勢の波状攻撃に次第に崩されていく。ここぞとばかり、信長は郎党たちとともに義元の本陣に突入した。
この時、手柄を立てた若武者二人の名前が『信長公記』に伝わっている。最初に義元に迫った服部小平太は、反撃され膝を斬られた。そして、二番手の毛利新介が義元を斬り倒して首級を上げた。
桶狭間古戦場伝説地には、「七石表」という7本の石柱が建てられている。写真はその一号碑であり、写っていない面に「今川上総介義元戦死所」と刻まれている。明和八年十二月(1772)に尾張藩士によって建てられた。
史跡を示す標柱は今、そこかしこに建てられ、旅人が歴史を偲ぶよすがであり、撮影スポットにもなっている。建碑時期は近代以降が圧倒的に多く、江戸時代半ばというのは大変珍しい。「七石表」自体に文化財としての価値がある。
ちなみに、今川義元の官職は上総介(かずさのすけ)ではなく、治部大輔(じぶたいふ)である。上総介は織田信長の名乗りであった。
桶狭間古戦場伝説地に「桶峡(おけはざま)弔古碑」がある。写真では手前の碑である。文化六年(1809)5月に津島牛頭天王社(津島神社)の神官によって建てられた。史跡顕彰碑として貴重である。漢文のため現代人には難解だが、次の一節は意味が取れよう。
永禄三年駿矦西征五月十九日陣桶峽山北織田公以奇兵襲之駿矦義元滅
「駿矦」とは、列侯のうち駿河を領した今川義元のことである。
桶狭間古戦場伝説地から道をはさんで高徳院側に「徳本の名号」がある。徳本上人は各地を念仏教化して歩いた行者で、丸みを帯びた独特の徳本文字で知られている。説明板を読んでみよう。
徳本行者(江戸浄土宗の高僧 文化文政の頃の人)がこの地を訪れて敵味方の戦死者の霊を弔うために建てたものである。
円筒形の小塔であり、南無阿弥陀仏の六字の名号が刻まれている。
豊明市教育委員会
今は自動車の行き交う街中だが、文化文政(19世紀前半)の昔は、浮かばれぬ霊が漂っていても不思議ではない野辺だった。高徳の僧侶の念仏に、霊も耳を傾け、鎮まっていったことだろう。
近くに「お化け地蔵」がある。徳本上人の供養から時を経て、再び亡霊が現れるようになった。これを見かねた尾張藩士が、嘉永六年(1853)に地蔵を建立した。これにより、お化けは現れなくなったという。
そのまた近くに「今川義元仏式の墓碑」がある。説明板も読んでみよう。
法名を刻んで建立された供養塔である。
今川義元の三百回忌(万延元年)にあたり建てられた。
正面 天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士
右側面 万延元年庚申五月十九日
左側面 願主 某
豊明市教育委員会
確かに形式も銘も仏式の墓である。よくありがちな墓碑をわざわざ「仏式」というのは、次に紹介する墓碑と区別するためだろう。
桶狭間古戦場伝説地に「今川治部大輔(じぶだゆう)義元の墓」がある。豊明市教育委員会の説明板には、次のように記されている。
以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。
有松は現在の名古屋市緑区に位置する。豊明市域のこの場所に義元の墓を建てたのが、有松の住人であったことに意義がある。このことは後で述べよう。
高徳院の境内に「松井宗信の墓」がある。
ここでも豊明市教育委員会の説明板を読むことにしよう。
遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治九年山口正義によって建てられた。
正面 松井兵部少輔宗信墓
松井宗信は今川義元の側近であったが、ここ桶狭間で奮戦むなしく討死した。『信長公記』には「二俣の城主松井五八郎松井一門一党二百人枕を並て討死也」と記されている。墓を建てたのは、やはり有松の山口正義であった。
桶狭間古戦場伝説地に戻ると、「桶狭間古戦場趾」と刻まれた石柱がある。大正四年(1915)11月に有松町によって建てられた。有松町とは現在の名古屋市緑区にあった自治体である。先ほども、有松の人が義元と家臣の墓を建てたことを紹介した。
このことは実は重要だ。なぜなら、桶狭間古戦場はもう一つ、旧有松町の町域にもあり、「桶狭間古戦場公園」として整備されている。二つの桶狭間は、豊明市vs名古屋市緑区の構図で本家争いをしているように見える。しかし、かつては豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」が両者公認の史跡だったのである。
最後は「史蹟桶狭間古戦場」と刻まれた石柱である。ここが「桶狭間古戦場伝説地」として国の史跡に指定されたのが昭和十二年(1937)12月、当時の豊明村が管理団体に指定されたのが昭和十三年4月、この史跡指定標柱が建てられたのが昭和十六年10月である。
次回に紹介する「桶狭間古戦場公園」と比べるとよく分かるが、「桶狭間古戦場伝説地」には、古戦場として繰り返し顕彰されている重厚な歴史がある。ただし、「伝説地」と少々控えめなのは、奥ゆかしいのか自信がないからか。
昨年6月4日(土)5日(日)に「桶狭間古戦場まつり」があった。義元公墓前祭や武者行列のほか、合戦の再現劇もあったそうだ。「のぶながくん」と「よしもとくん」というストレートなPRキャラクターもいる。ここは戦国ファンなら一度は訪れたい聖地なのだ。
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