前回、今川義元をバカ殿のように描くことを批判した。その点、「桶狭間古戦場公園」の今川義元像は秀逸である。「海道一の弓取り」と称えられた戦国武将の姿をリアルに表現している。お公家さんのような立烏帽子ではなく、折烏帽子なのが武将らしい。
相並ぶ織田信長も凛々しい姿だが、どこか一兵卒のようで、現実そのままの格下の人物表現だ。これは信長にとっての名誉でもある。というのも、バカ殿を討ち果たしても自慢にはならないが、ここ桶狭間で倒したのは「海道一の弓取り」だった。まさに大手柄だ。
名古屋市緑区桶狭間北3丁目の桶狭間古戦場公園に「近世の曙」と題された織田信長と今川義元の銅像がある。この像が設置されたのは平成22年(2010)、桶狭間の戦いから450年に当たる。
永禄三年(1560)時点の両雄の人物像を的確に表現しており、今後このイメージが定着していくだろう。制作は地元の彫刻家・工藤潔氏である。像は氏の代表作として記憶されるに違いない。
古戦場公園から少し南、緑区桶狭間に「瀬名伊予守氏俊陣地跡」がある。少し残った竹薮がかつての名残りだという。
瀬名とはどのような武将なのか。有松桶狭間観光振興協議会の説明板を読んでみよう。
永禄三年五月十七日、今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣し、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が十九日に昼食する時の本陣の設営をしました。
その時、瀬名伊予守氏俊が着陣した陣所あとです。古伝によれば、東西15m、南北38mくらいで、これより奥に位置します。
今川軍は慢心し油断していたと言われるが、進軍に当たっては用意周到な準備をしていた。その証拠がもう一つある。
瀬名陣所跡の近く、緑区桶狭間神明に「義元公戦評之松」と刻まれた石碑がある。
名古屋市教育委員会の説明板を読んでみよう。
永禄三年(一五六〇)桶狭間の合戦のとき、今川方の将瀬名伊予守氏俊が、かつてここにあった松の根元に部将を集め、戦いの評議をしたと伝えられる。
瀬名は先発隊として、本陣の設営と今後の打ち合わせを行ったのち、大高城へ向かった。このため瀬名自身は桶狭間で戦うことはなかったようだ。
古戦場公園に戻ろう。「義元公馬繋杜松」と刻まれた石碑の後ろに枯木が立っている。これは義元が馬をつないだ杜松(ねず)の木である。触れると熱病になるといういわくつきの木だが、「ねず」から「ねつ」を連想したものだろう。
古戦場の東、緑区桶狭間北三丁目に「おけはざま山 今川義元本陣跡」と刻まれた碑がある。今は住宅地の中だが、何もなければ周囲の見通しはよいだろう。
「おけはざま山」とわざわざ平仮名で表記しているのは、『信長公記』に次の記述があるからだ。
御敵今川義元は四万五千引卒しおけはさま山に人馬の休息在之
この後に大雷雨に襲われ、義元にとって運命の戦いが行われることとなる。いっぽう信長は、雷雨を好機ととらえていた。
桜花学園大学・名古屋短期大学の敷地内、豊明市栄町武侍(さかえちょうたけじ)に「信長坂」がある。
大学によって整備されている。信長が天下取りへと駆け上った階段は、学生にとっては自分の夢へと一歩ずつ近付く道だ。説明板を読んでみよう。
永禄三年五月十九日(西暦一五六〇六月二二日)午後一時頃、この辺りの山麓で激しい雨が止むのを待っていた織田信長隊は、この坂をいっきに駆け上がり、今川義元の本陣に突入したと伝えられています。
これが世に言う「桶狭間の合戦」であり、信長の勝利によって中世の陋習は打破され、近世への扉が開かれました。
桜花学園大学 名古屋短期大学
信長が桶狭間で勝ったことが、中世の陋習を打破したかどうか。まさか義元が陋習の象徴的存在だったわけではあるまい。だが、信長に代表される戦国大名が重層的な権利関係を否定し、統一的な政権を志向したことが、近世社会の成立につながっていることに異論はない。
戦闘の経過を『信長公記』で確認しておこう。
俄急雨(むらさめ)石氷を投打様に敵の輔(つら)に打付る。身方は後の方に降かゝる。沓掛の到下(たうげ)の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降倒るゝ。余の事に熱田大明神の神軍かと申候也。空晴るを御覧じ、信長槍をおっ取て、大音声を上て「すはかゝれ/\」と被仰、黒煙立て懸るを見て、水をまくるか如く、後ろへくはっと崩れたり。弓槍鉄砲のはりさし物、筭を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃げり。
旗本は是也。是へ懸れと御下知在。未刻東へ向てかゝり給ふ。初は三百騎計、真丸になって義元を囲み退けるが、二三度四五度帰し合/\、次第/\に無人に成て、後には五十騎計に成たる也。信長下立て、若武者共に先を争、つき伏つき倒し、いらったる若もの共、乱れかゝってしのぎをけづり、鍔をわり火花をちらし火焔をふらす。雖然、敵身方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻御小姓歴、衆々手負死人不知員。服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ倒伏。毛利新介、義元を伐臥、頸をとる。
にわかに強い雨となり、今川勢の者たちは、石か氷かに顔を打ち付けられるようであったが、織田勢は後ろの方に降りかかる程度だった。沓掛の峠の松の下に、二かかえ三かかえもあるクスノキがあったが、この雨で東へ倒れた。あまりの出来事に「熱田大明神が戦われているのか」と言う人もいた。空が晴れてくるのを見た信長は、急いで槍をつかみ、大声で「さあ、かかれ!かかれ!」と号令した。土煙を立てて打ちかかる織田勢に、今川勢は水をまき散らされた者が「わっ」と後ろへのげぞるかのように態勢を乱した。弓や槍、鉄砲、旗指物が「算を乱す」の言葉どおり散乱し、義元の乗る輿(こし)まで捨てて逃げるありさまだった。
織田勢の武将は「今だ!かかれ!」と命令し、午後二時ごろ東に向かって攻撃した。はじめは三百騎ほどが義元を丸く囲んで織田勢を撃退したが、波状攻撃を行ううちに守備兵が少なくなり、最後には五十騎ほどになってしまった。信長は馬から降りて若武者とともに突き倒すかのように先陣争いをした。いらだった若者どもも激しく先を争い、武具と武具が当たって火花を散らすほどであった。だが、敵味方の区別は混乱することなく、義元の近習たちは次々と倒された。すきのできた義元に、まず服部小平太が打ちかかったが、膝を斬られた。これに続いた毛利新介が義元を組み伏し首を取った。
古戦場公園に「今川義元戦死之地」と刻まれた石碑があり、さらに二つの墓石が相並んでいる。
左の墓石には「今川義元公」と刻まれている。裏面を見ると昭和8年の建立だと分かる。
右の墓石には「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻まれている。建立年代は定かではないが、昭和28年にこの辺りから出土したものだという。駿公とは今川義元のこと、墓碣とは円形の墓石である。
古戦場公園に「義元公首洗いの泉」がある。現代の噴水のように見えるが、とりあえず、桶狭間古戦場保存会の説明板を読んでみよう。
織田軍に攻められ討ち死にした今川義元公の首級をこの泉で洗い清めたと言われています。昭和六十一年(一九八六)の区画整理まで清水が豊富に湧き出ていました。
この地は水が豊富に湧くので深い田んぼが多かった。このことを『信長公記』は、次のように記している。
おけはさまと云所は、はさまくてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所という事限りなし。
桶狭間という所は入り組んで、深い田に足をとられ、草木が高く低く茂り、たいへんな難所である。
緑区桶狭間の長福寺に「今川義元公首検証之跡」がある。杉の木の根元に建てられた石碑にそう刻まれている。
石碑には次のような説明もある。
永禄三年五月此の附近に於て林阿弥が今川家の首検証を命ぜられた所
林阿弥とは今川義元に仕えた茶坊主で、首検証の後に放免され、主君らの供養の為にと、この寺に阿弥陀如来像を奉安したという。その像は今、ご本尊となっている。
写真左の石塔は「桶狭間合戦供養塔」である。昭和43年に建立された。「敗れた者の桶狭間」で紹介したように豊明市では曹源寺が、名古屋市緑区ではここ長福寺が、桶狭間の戦いの犠牲者の供養を続けている。
長福寺の境内に「弁天池」がある。この池も桶狭間合戦にゆかりがある。寺の設置した説明板を読んでみよう。
殺生が禁じられた放生池。鎮守は福徳財宝をもたらす弁才天。江戸時代の史料には、「血刀濯(すす)ぎの池」と記される。桶狭間の戦いで血のついた刀が濯がれた場所と考えられる。
血のついた刀を洗うといえば、「血は奔湍に迸りて紅雪を噴く」で紹介した菊地武光を思い出す。戦いを終え、刀の血を落とす心境とは、どのようなものだろうか。敵を倒した成就感か、生き残った安堵感か。いや、それとも殺し合った後に襲われる虚無感だろうか。
緑区桶狭間北二丁目に「七ツ塚」がある。今は住宅地の中で、少々見つけにくい。
昨年末にハワイを訪れた安倍首相は、現地時間の26日、米国立太平洋記念墓地を訪問した。戦禍にたおれた先人の冥福を祈るのは、外国を訪れた要人の通例となっている。
これと私の旅は比較にもならないが、史跡として顕彰することに慰霊の意味を込めているつもりだ。この塚の説明板を読んでみよう。
織田信長は、義元を討ち取った後、直ちに全軍を釜ヶ谷に集めて勝鬨を上げ、村人に命じて、山裾に沿って等間隔に七ツの穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させた。
その内の二つが原形を残していました。里人は七ツ塚、又は石塚と称し、これを取り壊す者は、「たたり」があり、命を失った者も居たそうです。今は、平成元年の区画整理に伴い塚を整備して、塚の一つを残し、その一角に碑が建てられました。
有松桶狭間観光振興協議会
「たたり」があるという言い伝えは、この塚の大切さを語っているのだろう。命を失った者もいると言うが、「ツタンカーメンの呪い」と同じで、偶然の出来事が関連付けられたのだろう。
古戦場公園に「桶狭間古戦場田楽坪」と刻まれた碑が建てられている。碑銘の下には小さく「陸軍大将松井石根書」とある。桶狭間古戦場保存会の説明を読んでみよう。
今川軍の先陣 松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫 松井石根氏が昭和八年五月(一九三三)に古戦場跡を訪れたときに揮毫したものです。昭和八年八月 郷土史家 梶野孫作 建碑。
「戦国聖地巡礼・桶狭間(豊明市編)」で、松井宗信の墓を紹介した。今川義元配下の有力家臣である。その子孫が松井石根陸軍大将だという。のちに「南京大虐殺」の責任を問われ刑死することとなる悲運の軍人である。
昨年5月15日(日)に「桶狭間古戦場まつり2016万灯会」があった。戦死者を弔う3500本のロウソクが幻想的な風景をつくる。こちらのまつりにもPRキャラがおり、その名を「おけわんこ」という。
豊明市と名古屋市緑区と、二つの桶狭間がある。それぞれに「義元駒つなぎのねず」「義元本陣跡」「義元戦死の地」があり、どっちやねん、という思いがする。まつりもPRキャラもそれぞれにある。
大きな合戦だから、おそらく両地区ともに戦場だったのだろう。その意味ではどちらの桶狭間も正しい。
しかし、合戦という非常時に死亡現場を正確に記録することはないだろうから、どちらの史跡も信憑性に欠ける。しかも、織田信長が有名になったから『信長公記』が書かれ、『信長公記』によって「桶狭間」も注目されたのだ。長い歳月を経て、合戦当時の記憶は正しく伝えられただろうか。
どちらが正しいかという史実の追究には限界があろう。本当に必要なのは、戦陣に散り戦禍にたおれた人々に、心から追悼の意を表することだ。二つの桶狭間で、それぞれに慰霊の行事が執り行われるとともに、合戦が顕彰されていることに意義があると言えよう。
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