初めて東京駅に降り立った時のこと。駅を出たが、あの有名な煉瓦造りの建物が見つからない。おかしいと思ったら八重洲口だった。次に驚いたのは、八重洲ブックセンターに行った時である。こんなデカい本屋見たことないゾと思ったその時から、「八重洲」は本屋のイメージになった。
東京都中央区京橋一丁目と日本橋三丁目の境に「日蘭修好380周年記念ヤン・ヨーステン記念碑」がある。てっきりシェークスピアかと思ったが、ヤン・ヨーステンである。1989年(平成元年)に設置された。
1989年が380周年ということは、1989-380=1609だから、慶長14年が起点である。この年には、平戸にオランダ商館が設置され、日蘭国交正常化が実現した。その後、1641年になってオランダ商館は長崎の出島に移転となり、我が国の「鎖国体制」が確立するのである。
いま「鎖国」と言ったが、歴史教科書から「鎖国」が消えると話題の学習指導要領が数年先に実施される。オランダに軸足を置いて江戸時代の外交を俯瞰すれば、確かに「国を鎖(とざ)す」という表現は適当ではない。
もうすでに400年以上の長い付き合いとなる友好国オランダ。ペリー来航を事前に知らせてくれたり、干拓の技術を教えてくれたりと、本当にお世話になった。我が国とは関係ないが、いま動向が注視されるキムさんにも人道的な支援をした、というウワサがある。持つべきは、このような優しく力量のある友人だろう。
そのオランダからやってきたヤン・ヨーステンとは、どのような人物なのか。説明のプレートを読んでみよう。
ヤン・ヨーステン 1557頃~1623
1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムズらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷は和田倉門-日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.ブラート作
「八重洲(やえす)」はかつて「八代洲(やよす)」と呼ばれており、それは「ヤン・ヨーステン」に由来していたのだった。東京には神保町(神保氏に由来)とか乃木坂(乃木大将に由来)など、人名に由来する地名をときどき見かけるが、外国人に由来するとは珍しい。ちなみにフルネームは、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn)という。
ただ不思議なのは、彼の屋敷があった「和田倉門-日比谷間の内濠の沿岸」は丸の内側であり、八重洲から離れていることだ。調べると、次のような事情があることが分かった。
もともと「八重洲」は、ヤン・ヨーステンの住んでいた東京駅西側の地名だった。明治になって、八重洲町に行くために外堀に橋を架けた。これが「八重洲橋」である。大正になって東京駅ができ、昭和になって八重洲町は丸ノ内(のちに丸の内)に改められ、丸ノ内に面した丸ノ内口と八重洲橋に面した八重洲口という呼び方ができた。さらに戦後になって外堀が埋められ外堀通りとなり、八重洲橋は無くなったが「八重洲」の地名が定着したというわけだ。
オランダ人航海士ヤン・ヨーステンは、地名を通じて日本人の記憶に残ることとなったが、オランダ生まれのキャラ「ミッフィー」ちゃんに親しんだ、あるいは子育てでお世話になった記憶をお持ちの方も多かろう。作者のディック・ブルーナ氏が2月16日に亡くなった。どちらも日蘭交流史に残る代表的オランダ人である。
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