大河ドラマ『軍師官兵衛』では、田中哲司が荒木村重を、武将としての迫力を見せながら、心の内側にあるものも上手く演じていた。その村重は、伊丹市で「街づくりの先駆者」と評価されている。ここ摂津伊丹に有岡城を築き、城下町を整備したからだ。
伊丹市伊丹一丁目に国指定史跡の「有岡城跡」がある。
石垣は野面積みで、一部に石塔の台石を転用している。この時代の宗教観は、私たちの感覚とはやや異なるらしい。ただし、転用石の使用は有岡城に限ったものではなく、姫路城、福知山城、大和郡山城など、この時代の城郭にはよく見られる。現在は史跡公園として整備され、石垣のほか、土塁や堀跡などを見ることができる。
天正六年(1578)10月、村重は主君信長に背き籠城したが、毛利の援軍は来ず織田の大軍に攻められ、翌七年11月に落城する。多くの住民が城と運命を共にした。村重も城を枕に討死したのだろうか。
さにあらず、落城前の9月、村重は単身で尼崎城へ脱出し、しかも妻子や住民を救おうと行動していない。ここが評価の分岐点だ。『信長公記』巻第十二は、次のように記している。
今度、尼崎・はなくま渡し進上申さず、歴々の者どもの妻子・兄弟を捨て、我身一人宛(づつ)助かるの由、前代未聞の仕立なり。
信長は、尼崎城と花隈城を差し出すなら妻子を助けよう、と条件を提示したが、村重はこれをけった。『信長公記』は、妻子を見捨てて自分だけ助かろうとするとは「前代未聞」だと驚いている。
残された妻子はどうなったか。『信長公記』の続きを読んでみよう。
十二月十三日辰の刻に、百二十二人、尼崎ちかき七松(ななつまつ)と云ふ所にて張付に懸けらるべきに相定め、各(をのをの)引出だし候。さすが歴々の上臈達、衣装美々(びび)敷出立(いでたち)、叶はぬ道をさとり、うつくしき女房達並び居たるを、さもあらけなき武士共が請取り、其母親にいだかせて引上/\張付に懸け、鉄砲を以てひし/\と打殺し、鑓(やり)・長刀(なぎなた)を以て差殺し、害せられ、百廿二人の女房一度に悲しみ叫(さけぶ)声、天にも響(ひびく)ばかりにて、見る人、目もくれ心も消へてかんるい押へ難し。是を見る人は、廿日・卅日の間は其面影身に添ひて、忘やらざる由にて候なり。
12月13日朝、女122人が尼崎に近い七松という所で磔(はりつけ)になると決まり引き出されてきた。さすがに美しい衣装をまとった身分の高い女房も、この先どうなるかは分かっていた。こうした美しい女性たちを荒々しい武士どもが受け取って磔にした。子がいれば母親に抱かせたまま次々と引き上げ、鉄砲で撃ち殺したり、槍や長刀で刺し殺した。122人の女どもが一度に泣き叫ぶ声は天にも響くばかりで、見ていた人は目がくらんで気が遠くなり、涙が止まらなかった。20日、30日とその表情が思い出されて忘れることができなかったそうだ。
この後に、他に女388人、男124人が4軒の家に押し込められ、草を積んで焼き殺された、との記述が続く。阿鼻叫喚の地獄が現実にあったのだ。
村重の妻だしを『軍師官兵衛』で桐谷美玲が演じた。「今楊貴妃」と呼ばれた絶世の美女だったそうで、『信長公記』にも「たしと申すはきこへある美人なり」とある。そのだしも、京都市中を引き廻しの上、六条河原で首を刎ねられた。
伊丹市中央六丁目の墨染寺に「女郎塚」がある。
石塔の右側面に「天正七年己卯十二月十三日落城」とあるから、非戦闘員なのに理不尽に殺害された「歴々の上臈達」を供養したものだろう。
「女郎塚」のとなりに「荒木村重の墓」と伝えられている「正和二年層塔」がある。寄せ集めの石材でできており、もっとも古い台石には「正和二年」と刻まれている。これは鎌倉末期の1313年に当たる。村重は備後尾道に隠れ、宿敵の信長よりも長生きして、天正十四年(1586)に堺で没する。晩年は茶人として心静かに過ごした。実際の墓の場所は不明のようだ。
この村重をどう評価すればよいのか。かつて船員法には次のように規定されていた。
第十二条 船長は、船舶に急迫した危険のあるときは、人命、船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽し、且つ旅客、海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。
現在は最後退船義務はないようだが、沈没した韓国セウォル号の船長が逃げて厳しく非難されたように、最高責任者として尽力する義務は当然課せられている。
突拍子もない例えのようだが、総構(そうがまえ)の城中に多くの人々を抱える有岡城は、大型客船そのものである。自分の命に代えても城中の者たちを助けてくれ。そう訴えるのが私たちの期待する戦国の城主像だ。別所長治のように。
伊丹市伊丹一丁目の荒村寺に「鬼貫(おにつら)句碑」がある。
お察しのとおり「荒村寺」の寺名は荒木村重に由来する。句碑には次のように刻まれている。
古城や茨(いばら)くろなる蟋蟀(きりぎりす)
「東の芭蕉、西の鬼貫」と呼ばれた鬼貫は、故郷の有岡古城を訪れた。村重やだし、その他大勢の武士やその妻子が命を懸けた堅固な城郭も、今では、いばらが茂りキリギリスが鳴いている。諸行無常の虫の音である。芭蕉が平泉で「夏草や兵どもが…」と詠んだときの感慨と同じであろう。
伊丹で村重の評価について考えることは、人の生き方に思いを巡らすことだ。命を捨てることが美しいことか、命を惜しむことが恥ずかしいことか。己を利するのか、他を利するのか。人間らしい課題を、村重はこの地で一身に背負うこととなったのである。
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