昭和52年に小学生だった方は「たたりじゃ〜!八つ墓村のたたりじゃ〜!」と男子が叫んでいたのをご記憶であろう。ホラーサスペンスの巨匠横溝正史原作の『八つ墓村』である。昭和には確かに残っていた前近代的な旧家の雰囲気を背景に、おどろおどろしい人間関係が息をのむような展開で描かれる。次から次へと起きる奇妙な死は、もはや祟りでしか説明できないかのように思えたものだ。
倉敷市真備町岡田に「濃茶のばあさん」という祠がある。『八つ墓村』をご覧になった方はお気付きのことと思う。「濃茶の尼」という「たたりじゃ~」のばあさんである。
内部に「南無濃茶大権現」の文字があるというが、『八つ墓村』と何の関係があるのか。説明板を読んでみよう。
このちいさな祠(ほこら)は、江戸時代藩家老の奥方が旅路で病に苦しんだ時、茶店の老婆の親切でその地の神社に祈願し、平癒したので帰国後奥方は祠を立て、その神体を勧請したと伝えられ、土地の人は「濃茶のばあさん」としてまつり、供え物が絶えなかったという。
横溝正史は、この話をヒントに名作「八つ墓村」に濃茶の尼を登場させた。
濃茶のばあさんの話と濃茶の尼の登場シーンには、何のつながりもないように思える。おそらく横溝正史は「濃茶」という名前が気に入ったのだろう。では、横溝はなぜ「濃茶のばあさん」を知っていたのか。
倉敷市真備町岡田に「横溝正史疎開宅」がある。「濃茶のばあさん」から100mほど進んだところだ。地元の方から名前や由来を聞いていたに違いない。
戦争末期、永井荷風が岡山へ、谷崎潤一郎は勝山へ、そして横溝正史は岡田へと、作家たちはそれぞれに疎開していた。いま列挙した3か所はすべて岡山県内である。東京大空襲で家を失った荷風は運の悪いことに岡山でも被災した。勝山は谷崎が名作『細雪』を書いた場所の一つである。横溝は岡田でどのように過ごしていたのだろうか。説明板を読んでみよう。
~名探偵金田一耕助誕生の家~
世界的な推理文壇の大御所横溝正史氏とその一家は、太平洋戦争末期の昭和二十年四月、東京での戦禍を避けて、ここ真備町岡田で約三年半の疎開生活を送った。
当時、軍部の圧力で探偵小説を書くことができなかった正史は、岡田地区の人と交わり、畑でジャガイモ作りなどに精を出した。しかし、いつの日か本格的な長編作品を書きたいと考えた正史は、東京から運んだ蔵書を読み、地区の親しかった人達から農村の因習、農漁民の生活などの話を聞き、作品の構想をあたためた。
戦後、正史が日本で初めて本格理論的な推理小説を拓いた「本陣殺人事件」「獄門島」「八つ墓村」など多くの名作が、この地で発表され世界の文壇に躍り出た。
名探偵・金田一耕助は、「本陣殺人事件」で磯川警部と共に初めて正史作品に登場した。正史の日記によると彼・耕助は、昭和二十一年四月二十四日この家で生まれたことになる。
横溝は荷風のような目に遭うこともなく、平穏に過ごすことができ、文学的な収穫もあった。金田一耕助誕生の地だということで、毎年秋には「1000人の金田一耕助」というコスプレイベントが開かれている。「濃茶のばあさん」の前では、濃茶の尼が登場するから、ファンにとっては欣喜雀躍の思いだろう。
あのくたびれた御釜帽(おかまぼう)をかぶると、誰もが金田一耕助になれるという。古き良き昭和のヒーローの一人と呼んで過言ではないだろう。「ジッチャンの名にかけて」と決めゼリフを言うあの少年は、耕助の孫だということだ。
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