「国難突破解散」だとか言って、もうすぐ衆議院総選挙が始まる。それよりもっと深刻な国難は、地方選挙で投票率が過去最低を更新していることだ。今月あった選挙では、柏原市、羽曳野市、城陽市、総社市、えびの市などがそうだ。18歳選挙権になろうが低下傾向は変わらない。いい大人が選挙に行かないのに、18歳が行くわけがない。主権者教育は有権者である大人にこそ必要だ。
こんな調子だから、市長さんが何を言おうと関心は高まらず、議員さんなど名前すら知らない。地方政治家のうち、引退後あるいは亡くなった後まで、地域の恩人として住民に慕われる人は、どれほどいるのだろうか。
江戸時代の殿さまも、全国各地に大小たくさん存在したが、旧領地の人々から今も慕われている人は、それほど多くない。全国区で有名なのは肥後熊本の加藤清正、三州吉良の吉良上野介であろう。本日は、あまり知られていないが、今も敬慕されるお殿様のお話である。
倉敷市茶屋町に「真如庵」がある。この地域を治めていた領主のご廟所で、墓石が今も大切に守られている。右隣にも墓石があるが、これは忠臣角田才兵衛の墓である。
墓石には「真如院殿前備州浄性日覚大居士」という法名が刻まれている。「前備州」とあるから備前守を名乗っていた人なのだろう。真如庵総代会が由来を記した石碑を作成しているので、読んでみよう。
ここ真如庵は、帯江新田を干拓された帯江の殿様戸川安廣公のご廟所です。干拓の完成は宝永四年、一七〇七年、(公五十四歳の時)
公は、直参旗本のため、江戸表にお住まいになられました。勘定奉行にご栄進されましたが病気にかかられ五十六歳宝永六年(一七〇九)の秋にご逝去されました。
公は、帯江新田開墾の祖として、領民の敬慕篤く領民はその徳を慕い、公の菩提を永遠に弔いたいと願い出て、江戸の玄照寺墓所から分骨を迎え、正徳四年(一七一四)にお墓を建立しました。公の遺骨について来て一生墓守をせられた公の寵臣角田才兵衛が住んだ家が後の庵となりました。
(茶屋町史より要約)
このあたりは、かつて児島湾の一部だったが、18世紀初めに干拓により陸地化した。この時代は、全国で新田開発がさかんに行われ、耕地面積とともに人口も増加する高度経済成長期であった。
領主の戸川安廣は大名ではなく三千石の旗本である。戸川氏はもと宇喜多氏の有力家臣だったが、御家騒動により宇喜多家を離れ、関ケ原では東軍に属した。家康から活躍が認められ、備中庭瀬で三万石の大名に取り立てられた。
庭瀬藩主としては4代で途絶えることとなるが、備中撫川、備中妹尾、備中早島、備中中島、備中帯江にそれぞれ知行所をもつ5家が旗本として幕末まで続いた。帯江戸川家は、第二代庭瀬藩主正安が弟安利に備中帯江を分知したことに始まる。本日紹介している安廣は安利の子で二代目となる。
安廣は有能な官僚だったようで、元禄十二年(1699)4月14日から宝永五年(1708)2月29日にかけて、勘定奉行を務めている。同僚には貨幣改鋳で知られる荻原重秀(おぎわらしげひで)がいた。金の含有率を下げた元禄改鋳はバブルをもたらしたとも言われるが、アベノミクスに通じるデフレ脱却策だったと見ることもできる。安廣も同じように考えていたはずだ。マネーストックを増やして購買力を上げ、干拓という公共事業を実施して景気を刺激する。自らの地元で景気浮揚を実践していたわけだ。
干拓は広大な新田を生み出し、領民の生活基盤を安定させた。帯江新田は水稲だけでなくイグサ栽培もさかんで、花ござの生産でも知られるようになった。近年は宅地化が進み、近郊のベッドタウンとしても発展している。この礎を築いたのが戸川安廣公である。三百年の後まで慕われるのには理由がある。
封建時代には領主を選ぶことはできなかったが、天下の行く末を考え、領民を慈しむ名君は確かにいた。民主主義の現代は、幸せなことに政治家を選ぶことができる。「選良」とは選挙で選ばれた立派な人である。是非とも立派な人を選びたいものである。立派な候補者がいればの話だが。投票率の低下は、そのあたりにも原因があるかもしれない。
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