自己責任だと簡単に言うが、自分ではどうすることもできない運命に翻弄される人生は確かにある。その人の立場とか偶然の出来事とかに左右されることも実際多い。とりわけ天皇という立場は特別で、単なる畏敬の念からだけではなく、そのご労苦に頭が下がる思いがする。
歴代天皇125人の人生には、そのまま日本史になるような様々な出来事があった。中でも涙を誘うのは安徳天皇、歴代最年少で崩御なさった帝である。御年6歳4か月であった。
神戸市須磨区一ノ谷町二丁目に「安徳帝内裏跡伝説地」がある。
木曽義仲と源義経らが争っている間に、平家は京を奪回しようと、生田の森を大手、一ノ谷を搦手として布陣した。そこへ義仲を倒した義経が山の手から奇襲し、平氏は海上へと敗走する。寿永三年(1184)2月7日朝のことであった。
安徳天皇は、前年7月の都落ち以来、平家とともに流浪していた。一ノ谷に平家が陣していた時、安徳天皇はこの高台に住まわれていたという。あくまでも「伝説地」であり、確かな証拠があるわけではない。それでも、あの松尾芭蕉の紀行文に登場するので、古くから知られていた場所のようだ。『笈の小文』を読んでみよう。
かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさ、いはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我、心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路島手にとるやうに見えて、すま、あかしの海、右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。
又、後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風村雨の ふるさとゝいへり。尾上つヾき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき、逆落など、おそろしき名のみ残て、鐘懸松より見下に、一ノ谷内裏やしき、めの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび俤につどひて、二位のあま君、皇子を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍、局、女嬬、曹子のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶、琴なんど、しとね、ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり、櫛笥はみだれて、あまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび、此浦にとヾまり、素波の音にさへ愁多く侍るぞや。
『源氏物語』第十二帖「須磨」で、心にしみるのは「かゝる所の秋なりけり」と書いてあるが、この須磨浦のよさをしみじみと感じるのは、やはり秋なのであろう。悲しさや寂しさは何とも言いようがないくらいで、秋だから少しは心に浮かんだことを句にしてみようと私が思ったのも、表現のつたなさを季節の美しさで補うようなものだ。淡路島が手に取るように見えて、須磨と明石の海が左右に分かれている。杜甫が「岳陽楼に登る」で「呉楚東南にさけ」と詠んだ洞庭湖もこのようなところだろうか。よく知っている人が見たなら、いろいろな場所になぞらえることだろう。
また、うしろの鉄拐山の向こうにある田井の畑は、在原行平が愛した松風と村風のふるさとだという。尾根づたいに丹波路への道がある。「鉢伏のぞき」「逆落」など恐ろしげな名が残っており、義経が陣鐘をかけたという鐘懸松から見おろすと、安徳天皇がいた一ノ谷内裏屋敷が見える。源平の世の乱れ、当時の騒ぎがそのまま思い浮かび、様々な人の面影が見えるようだ。二位の尼が安徳天皇を抱き、建礼門院は衣装の裾を踏んで足をもつれさせ船室に転げ込むご様子。内侍や局、女嬬(にょうじゅ)、曹司(ぞうし)などの女官が、さまざまな調度品の扱いに困り、琵琶や琴などを布団にくるんで船の中に投げ入れている。天皇のお膳はこぼれて魚のえさとなり、化粧箱は飛び散って海の藻屑となった。千年来の悲しみがこの浦にとどまり、白波の音にさえ愁いを感じる。
さすがは松尾芭蕉。須磨浦の美しさを古典に関連付けて表現し、滅びゆく平家を巧みに活写している。「安徳帝内裏跡伝説地」の紹介があるものの、見たというだけで訪れたかどうかは分からない。
見晴らしのよい高台は安徳帝の行在所にふさわしいように思えるが、当時、瀬戸内海の制海権は平家の手にあったから、本当に安全な場所は海上である。平家勢のうち、武士は源氏勢との決戦に備えて陸に上がっていたが、女官や幼い天皇は船で待機していたのではなかろうか。
源義経は「鵯越の逆落とし」という奇襲で平家を敗走させが、その場所は謎である。二つの説があり、一つは神戸電鉄有馬線の鵯越駅の近くの史跡で、もう一つは、鉄拐山の東南斜面である。例えば次のような場所だ。
これは「安徳帝内裏跡伝説地」から麓に降りる道だ。比較的なだらかかな「鵯越」よりも「逆落とし」の場所にふさわしい。しかも、この坂を駆け下りると次のような史跡がある。
神戸市須磨区一ノ谷町5丁目に「源平史蹟 戦の濱」と刻まれた石碑がある。昭和13年3月に神戸市観光課によって建てられた。
一の谷の戦いの主戦場は、ここだったのか。須磨浦通6丁目自治会による説明板を読んでみよう。
一の谷と戦の濱
「一の谷」は、鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、この公園の東の境界にあたる。1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一の谷本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。
一の谷から西一帯の海岸は、「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦のなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。
軍馬のいななく声は何を意味しているのか。芭蕉は波の音が愁いを帯びていると書いた。おそらく「猛き者もついには滅びぬ」という世の無常を感じていたのだろう。ならば、軍馬のいななきは、心ならずも命を奪わねばならない戦の理不尽さを訴えているのではなかろうか。
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