今日11月17日は、元号が「養老」に改元されてちょうど1300年となる記念日である。もっとも旧暦だから実際には少々のずれがある。先日、「白山開山1300年」をレポートした。これは今に至る白山信仰の起点を祝っているのだ。では、歴史上数ある元号のうち、「養老」改元のみ盛大に祝うのはなぜだろうか。
下の写真のように、今年は「養老改元1300年祭」というイベントが行われている。主催は養老町役場であり、公式ガイドブックには「元正天皇による養老改元は、現在の養老町の成り立ちに強い影響を与えており」と、町のアイデンティティを「養老改元」に求めている。
岐阜県養老郡養老町養老の大鍬神社は「元正天皇行幸遺跡」であり、県の史跡に指定されている。元正天皇は霊亀元年(715)に即位した女帝である。
手前の「養老改元1300年記念碑」は、今年9月20日に除幕式があった。なぜ、その日なのか。『続日本紀』巻第七の養老元年(霊亀三年)九月十一日条からの次の記述に注目だ。
丁未、天皇行幸美濃国。
戊申、行至近江国、観望淡海。山陰道伯耆以来、山陽道備後以来、南海道讃岐以来、諸国司等詣行在所、奏土風歌舞。
甲寅、至美濃国。東海道相摸以来、東山道信濃以来、北陸道越中以来、諸国司等詣行在所、奏風俗之雑伎。
丙辰、幸当耆郡、覧多度山美泉。賜従駕五位已上物。各有差。
戊午、賜従駕主典已上及美濃国司等物。有差。郡領已下雑色四十一人進位一階。又免不破当耆二郡今年田租、及方県務義二郡百姓供行宮者租。
9月11日、元正女帝が美濃国を訪問された。
12日、近江国に行き、琵琶湖を見学された。山陰道は伯耆より、山陽道は備後より、南海道は讃岐より、それぞれ近い地域の国司らは行在所に集まり、その地方の歌舞をお見せした。
17日、美濃国に戻り、東海道は相模より、東山道は信濃より、北陸道は越中より、それぞれ近い地域の国司らは行在所に集まり、その地方の芸能をお見せした。
20日、多芸(たぎ)郡(今の養老町)を訪問され、多度山(今の養老山)の「美泉」をご覧になった。天皇に従う五位以上の者に、地位に応じた品物を賜った。
22日、天皇に従う主典(さかん)以上の者及び美濃国司らに、地位に応じた品物を賜った。郡司以下の役人は一階級昇進させた。また不破郡(垂井町のあたり)と多芸郡の今年の税を免除した。方県(かたがた)郡(岐阜市北部)と武儀(むぎ)郡(関市や美濃市)の百姓で行在所にお仕えした者の税も免除した。
除幕式の行われた9月20日は、女帝が養老の「美泉」をご覧になった日であった。美泉のすばらしさに感動した女帝は、ついに次のように命じた。養老元年(霊亀三年)十一月十七日条を書下し文で読んでみよう。
天皇、軒に臨みて、詔して曰はく「朕、今年九月を以て、美濃国不破の行宮に到り、留連(りうれん)すること数日なり。因りて当耆郡(たぎぐん)多度山の美泉を覧(み)て、自ら手面を盥(あら)ひしに、皮膚滑らかなるが如し。亦、痛き処を洗ひしに、除き愈えずといふことなし。朕が躬(み)に在りては、甚だ其の験(しるし)有りき。又、就きて之を飲み浴する者は、或は白髪黒に反り、或は頽髪(たいはつ)更に生ひ、或は闇(おぼつかな)き目明らかなるが如し。自余(そのほか)の痼疾(やまひ)、咸(ことごと)く皆平愈(へいゆ)せり。昔聞く「後漢の光武の時に、醴泉(れいせん)出づ。之を飲む者は痼疾(やまひ)皆愈(い)ゆ」と。符瑞書(ふずいしょ)に曰はく「醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。蓋(けだ)し水の精なればなり」と。寔(まこと)に惟(おもひ)みるに、美泉は即ち大瑞(だいずい)に合(かな)へり。朕、庸虚(ようこ)なりと雖も、何ぞ天の貺(たまひもの)に違(たが)はむ。天下に大赦して、霊亀三年を改めて、養老元年と為すべし」と。
女帝は群臣を前に次のようにおっしゃった。「わたくしは今年9月、美濃国の不破に行き、数日間滞在しました。そこでは、多芸郡の多度山にある「美泉」を見たのですが、その水で手や顔を洗うと、お肌がつるつるになったのです。また、痛いところを洗うと、痛みが取れるのです。わたしには、とても効果があらわれました。さらに、この水を飲んだり浴びたりした者は、白髪は黒くなり、ハゲ頭なら生え、目が見えねば見えるようになります。その他の病気もみな治癒するのです。むかし「後漢の光武帝の時代に霊泉が湧き出た。これを飲んだ者はみな病気が治った」と聞いたことがあります。瑞兆を記した書物には「霊泉は美しい泉である。この水をお年寄りに差し上げるがよい。まさに水の根源だからである」と記されています。本当に思うのですが、「美泉」は大いなる瑞兆でしょう。わたくしは至らぬ者ですが、どうして天からの贈り物に背くことがありましょうか。ここに、すべての罪を許し、霊亀3年を改め、養老元年とします」
おそらく女帝は、自らの感動を抑えきれず、全国民と共有したかったのではなかろうか。そして、これを機会に高齢者福祉を増進させようと考えたのではないか。この詔は、美濃の自然の素晴らしさとともに、仁徳(じんとく)ある天皇として時空の頂点に立つことを高らかに謳い上げた名文である。
遺跡の石碑の後方に「元正太上天皇万葉歌碑」がある。元正女帝が位を譲ったのちに詠んだ歌である。『万葉集』巻二十に採録されている。(歌番号4437)
富等登芸須奈保毛那賀奈牟
母等都比等可氣都都母等奈
安乎祢之奈久母
ほととぎすなほも啼(な)かなむもとつ人
かけつつもとな吾を哭(ね)し泣くも
ホトトギス、もっと啼いて。今は亡きあの方を思い出しながら、私も泣くことでしょう。感情のほとばしる絶唱である。亡きあの方とは誰だろうか。もしかすると将来を約束した人がいたのかもしれない。
女帝の定めた元号「養老」は、「養老律令」として日本史を学ぶ生徒が記憶し、滝の名称として文人に知られ、郡や町の名として親しまれている。詔が渙発された11月17日は、今に伝わる「養老」の起源なのだ。1300年を経た高齢化社会にあって、「養老」の理念はますます重要になっている。
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