自民党の最大派閥を率いる細田博之元官房長官はピアノが得意で、その腕前はピアニストの中村紘子が認めたほどだという。その縁で日本パデレフスキ協会の総裁を務めている。
イグナツィ・ヤン・パデレフスキとは何者か。ポーランドの著名なピアニストにして、1919年という大戦後の激動期に首相兼外相の重責を担い、パリ講和会議に出席した政治家でもある。
立憲民主党の枝野代表はカラオケ好きで、欅坂46も歌えるそうだが、707名の国会議員といえど、楽器で喝采を浴びる政治家は少ないのではないか。
神戸市須磨区須磨浦通4丁目に「村上帝社」がある。鳥居の脇にある石柱には「村上帝社 琵琶達人師長」とある。
村上帝とは第62代村上天皇。その親政は「天暦の治」と称される理想的な政治だったと評価された。また、楽器にも高い関心をお持ちだったようで、『今昔物語集』巻第二十四「玄象の琵琶、鬼の為に取られし語 第二十四」には、次のように記されている。
今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶、俄かに失せにけり。此れは世の伝はり物にて、いみじき公の財(たから)にて有るを、此く失せぬれば、天皇極めて嘆かせ給ひて、「かかるやんごとなき伝はり物の、我が代にして失せぬる事」とおぼし、嘆かせ給ふも理(ことわり)なり。
今となっては昔のことだが、村上天皇の時代に「玄象(げんじょう)」という琵琶が急になくなってしまった。これは古くから伝えられた大切な宝物で、天皇が「このように格別な伝世品を、私の代でなくすとは」と思われ、お嘆きになられたのも当然であった。
その後、源博雅(ひろまさ)という楽器の得意な公家が羅城門の鬼から取り返すことに成功する、という逸話である。それから二百年ほど経った院政期に太政大臣になったのは、藤原師長(もろなが)である。彼もまた琵琶の達人として知られていた。いよいよ、ここ須磨で物語が始まる。神戸市教育委員会・須磨区役所の設置した説明板を読んでみよう。
「平安朝の末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、さらに奥義を極めたいと入唐の忠を持って、この須磨の地まで来ました。ところが村上天皇と梨壺女御の神霊が現れて、琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり帰京した。」と言われており、一説に「龍宮から師長に捧げた琵琶の名器<獅子丸>を埋めた場所である。」とも伝えられています。
(中略)
また、この地はもと前方後円墳があり、その形が琵琶に似ているのでこのような伝説に結びついたとも言われています。
能の演目「絃上(玄象)」が語る伝説である。琵琶の腕をさらに磨こうと中国渡航を企てた師長を、須磨の地で阻止したのが村上天皇と女御の霊であった。人材の国外流出を防ぎ、我が国の技術水準の維持に努めたのである。天皇は師長に文化振興に一層励むよう期待を込め、ストラディバリウスならぬ琵琶の名器「獅子丸」を授けた。その名器が埋まっている場所がここだ。
神戸市須磨区千守町1丁目に「琵琶塚」がある。
村上帝社と琵琶塚は山陽電鉄をはさんで住所も異なるが、もとは一つの前方後円墳だったという。前方後円墳は確かに琵琶の形をしている。栃木県小山市には「琵琶塚古墳」もある。どうやら、このあたりに伝説の謎を解く手がかりがありそうだ。
まず、須磨のこの地に前方後円墳があった。墳形が琵琶に似ているので、琵琶塚と呼ばれるようになった。やがて、琵琶塚には琵琶が埋められている、と思われるようになった。その頃、須磨を舞台に「絃上(玄象)」という能が知られるようになった。須磨の琵琶塚はゆかりの地だろう。ということで、村上天皇を祀る社が建立された。
村上天皇も琵琶がお得意だったが、今上陛下はチェロ、皇后陛下はピアノ、皇太子殿下はビオラと、それぞれ楽器がお上手である。皇太子さまは今年7月の「学習院OB管弦楽団第75回定期演奏会」に出演され、ベルリオーズ作曲「幻想交響曲作品14」を演奏された。そう遠くない将来に新しい御代となるが、皇室と音楽との深いつながりは維持されるだろう。
いっぽう、中国渡航を断念した藤原師長は太政大臣となり位人臣を極めたのだが、保元の乱と平清盛のクーデターと、二度も配流の憂き目にあっている。政治的な成功と楽器演奏の熟達の両立は、容易なことではない。かつてこの地で奏でられた琵琶の音に代わって、今は山陽電車の通過音が響いている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。