「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言われる。政治家なら名を残すだけでなく、銅像になって姿を留めることができる。それで人の記憶に留まるのかと言うと、そう簡単ではないようだ。本日は、銅像まで残しながら、やがて像が失われ、今その名まで忘れられようとしている大臣経験者を紹介する。
広島市南区比治山公園に「早速整爾(はやみせいじ)銅像台座」がある。現代美術館とスカイウォークの間の道沿いにある。
建立は昭和4年で、台座正面には早速整爾の名や当時の濱口雄幸首相による顕彰文が銘板にあったが、今は失われている。次のような言葉が記されていたらしい。
至誠一貫 于公于私
毅然秉義 山岳不移
悠々白雲 魂兮安之
鋳銅設像 永紀追思
公私において誠を貫き、義を守る人であった。変わらぬ山や雲のもと、魂も安らかなれ。ここに銅像を造り、早速君を永く顕彰する。「男子の本懐」で知られる高潔な濱口首相が顕彰するくらいだから、人物的には申し分ないだろう。
早速聖爾は現在の広島市西区新庄町に生まれた。家は貧しかったが、向学心は人一倍持っていた。明治35年に衆議院議員となり、大正14年に加藤高明内閣の農林大臣(8月2日就任)に、翌15年の若槻礼次郎内閣では農林大臣(1月30日就任)、大蔵大臣(6月3日就任)に就任した。病のため亡くなったのは9月13日、これからという時の惜しまれる死であった。
農林大臣としての事績としては、「輸出生糸検査法」の制定が挙げられる。生糸は当時、日本最大の輸出品目であったが、次のような問題があった。日本は、湿度が高い気候であることに加え、製造工程で湯水を使うことから、生糸に含まれる水分量が多くなってしまう。そのため、国際取引の際に日本産は含水率が多いものとして評価され、不利益が生じていたのである。
そこで、無水量+原量×0.11を「正量」とする国際標準に合致させるため、輸出生糸について、横浜か神戸の生糸検査所での水分検査を義務付けたのである。輸出生糸検査法は大正15年3月27日に公布されたが、その公布原本には御名御璽とともに、若槻礼次郎(内閣総理大臣)、早速整爾(農林大臣)、片岡直温(商工大臣)の副署がある。この法律の成立もあって、生糸の輸出は数量ベースで昭和4年にピークを迎え、我が国の外貨獲得に多大な貢献をするのである。
若槻礼次郎内閣は、前任の加藤高明首相の急死により全閣僚留任により成立した。内務大臣だった若槻は兼務のまま首相を務めた。しかし6月3日、大蔵大臣の濱口雄幸が内務大臣、農林大臣の早速整爾を大蔵大臣とする改造があった。
大蔵大臣として直面した大きな経済問題に「金解禁」があった。第一次世界大戦によるバブルがはじけ、我が国は輸入超過に陥っていた。安易に金解禁をすれば金が流出してしまう。とはいえ、輸出の拡大には為替相場の安定が不可欠だ。そのため金解禁により、円を金と連動させ国際信用を高める必要に迫られていたのである。前年にはイギリスが金解禁に踏み切っていた。
金解禁に関して、早速新大臣は次のように述べた。大正15年6月4日付け大阪朝日新聞「新大臣の抱負」 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 政治(38-066)
根本方針は従来通り 金解禁は時期を見て徐ろに 早速蔵相談
金解禁問題は国際貸借改善と消費節約を行ひ徐々に円価の恢復をはかり解禁を行うても経済界に何ら衝動を与へざる時期および方法によつて解禁を行ふ意向であつて、金解禁問題の如きは蔵相更迭の如きことによつて軽々しくなさるべきものではない、一部では自分は在野時代に金の輸出解禁を唱へたことより推論して種々云為する向もあるが在野時代と現在とは経済界四囲の事情を異にしてをるから当時より現在を推すべきでない
金解禁を目指していることは確かだが、ソフトランディングするために実施時期を慎重に見極めるつもりだったようだ。しかし間もなく早速は病にかかり、3か月ほどでこの世を去ってしまう。金解禁が実現したのは、前任の蔵相だった濱口雄幸が首相を務めていた昭和5年のことである。
後任の蔵相には片岡直温(なおはる)が就いた。片岡は不良債権の解消に積極的に取り組むなど、決して愚昧な大臣ではなかったが、「現ニ今日正午頃ニ於テ渡邊銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ」(昭和2年3月14日)の失言により、昭和金融恐慌を引き起こすことになる。
もし早速が長生きをしておれば…という空想もできるが、震災手形の処理は誰が蔵相であっても困難を極めたであろうし、金解禁は遅かれ早かれ世界恐慌という大混乱に巻き込まれる。最終的に高橋是清蔵相の金輸出再禁止と積極財政で混乱が収束し、輸出が回復することとなる。早速整爾は、昭和史に名を残す人物の間にあって、目立たず忘れ去られつつあるが、我が国の貿易振興に尽力した政治家であることに間違いない。
ただ、都市伝説の世界ではちょっとした有名人物らしい。関東大震災後、大蔵省は、再建工事の際に将門の首塚を取り壊そうとしたが、関係者の不審な死が相次いだ。死者は2年間で14人、その筆頭に挙げられるのが早速大蔵大臣である。つまり、将門の祟りで亡くなったというのだ。
自分の死が祟りに結び付けられたり、銅像を建ててくれたのはよいが、金属が足りないからと溶かしてしまったりと、けっこう受難の政治家でもある。台座が残るのみだが、激動の昭和初期が見えてくる貴重な史跡と言えよう。
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