いよいよ平成30年が始まった。今年、鳥取県の大山は開山から1300年を迎えた。見る場所で姿がまったく異なる霊峰である。若い時分には何度も登ったものだ。
初登頂は中学二年の集団登山。前日から大山寺近くの旅館に泊まり、薄暗い早朝に起床し、弁当持参で夏山登山道を登る。頂上では雄大な風景の中で昼食の予定だったが、ガスと風が出て散々だった。それでも自らの力で1711mの高みに達し、私は「やればできる」ことを学んだ。
そのとき登ったのは「弥山(みせん)」。大山の頂上とされている場所で、現在は崩落により標高は1709mとなっている。面白いことに、大山には「頂上」とは別に「最高地点」がある。本日はそちらを紹介しよう。
鳥取県西伯郡大山町大山に「剣ヶ峰」がある。1710mの天狗ヶ峰のあたりから1729mの剣ヶ峰を撮っている。
最高地点には碑があり、銘鈑には「劍ヶ峯」「1731M」の文字がある。ここも以前に比べて低くなっている。写真は平成ひとケタ頃にユートピアルートから登った時のもので、登山をまったく分かっていない服装が恥ずかしい。
剣ヶ峰への道は、現在は崩落が激しいので通行禁止になっている。私の登山当時もけっこう細道で、足がすくむ思いがしたことを覚えている。
下山路は「砂すべり」を一気に下って面白かったが、こちらも現在は危険な状況のため通行禁止となっている。
登山の思い出ばかり語ってきたが、大山1300年の長い歴史の中で、登山が盛んになったのは近代のことである。大山は長らく信仰の山であり、1300年とは信仰の歴史であった。では、その起点となる「大山開山」は、どのように伝えられているのか。まずは、大山寺パンフレットを読んでみよう。
奈良時代養老二年(七一八)出雲の国玉造りの人で依道と云う方によって山が開かれました。
これに続いて「大山寺縁起」や「選集抄」が伝える説話を分かりやすく紹介しているが、ここでは原文で確認しておこう。
「伯耆国大山寺縁起」『続群書類従』第28輯ノ上釈家部所収
十七段
出雲国国造といふ所に猟士あり。名をば依道(よりみち)とぞ申ける。美保の浦より金色の狼を見出し、此洞に追入て只一矢に射ころさんとしける。箭さきに地蔵現じてみへたまひければ、道心忽におこりてもとどりを切、弓矢を捨て行すましけり。
十八段
彼金色の獣変じて光欖の尼とぞ名のりける。三生宿縁深き事をあらはしければ、善知識となりて行業年つもりて今連(こんれん)聖人と申けるが、南の山に光雲常に現て釈迦の像を感見し、南光院を建立。西谷白毫顕かば、弥陀の尊容仰て西明院をぞ起立しける。
一般に「国造」は「玉造」のことで、今連聖人は金蓮(こんれん、きんれん)上人と表記する。意訳してみよう。
出雲国の玉造に猟師がいた。名を依道という。美保関で金色のオオカミを発見し、洞窟に追い込んで矢で仕留めようとした。ところが、矢の先にいたのはオオカミではなく、お地蔵さまであった。猟師は殺生を悔い改め、弓矢を捨てて出家した。
金色の獣は変身して「光欖の尼」と名乗り、前世・この世・来世それぞれの生き方は、相互に深くつながっていることを教えてくれた。依道は僧として修行を重ね金蓮上人と呼ばれるようになった。上人は、南の山の光る雲の中に釈迦像が出現したので南光院を建立し、西の谷に仏の顔にある白毫が出現したので、阿弥陀仏を祀って西明院を建立した。
『撰集抄』第七「大智明神之御事」『大日本仏教全書』147巻所収
むかし俊方(としかた)といひける弓取、野に出て鹿を狩けるほどに、例よりも鹿おほくて、皆思ひの外に射とゞめにけり。扨(さて)此鹿どもを取らんとすれば、我持仏堂に千体の地蔵を、すへたてまつりける五寸の尊像に矢を射立て、鹿と見つるは地蔵にぞおはしける。其時俊方あさましくかなしく覚えて、地蔵に取りつき奉りてなきおめきけれども、さらにかひなし。やがて手づからもとどり切て我家を堂につくつて、永く殺生を留り侍りにき。
むかし、俊方という武士が野に出て鹿狩りをしていたところ、いつもよりも鹿が多く、思いのほか獲ることができた。この鹿を獲ろうとして持仏堂に千体の地蔵を祀っていたのだが、見れば五寸の地蔵に矢が刺さっている。鹿だと思っていたのはお地蔵さまだったのだ。俊方は自分のしてきたことが情けなく残念なことに思え、お地蔵さまにとりついて泣き叫んだが、どうにもならない。すぐに俊方は自らもとどりを切って出家し、我が家をお堂に造りかえ、その後は殺生することはなかった。
中世にはよくある霊験譚であるが、近年語られることがほとんどなかった。1300年という節目が、こうした説話を見直す契機となればよいと思う。そして、登山とともに信仰の山としての認識が広まることを願うものである。登山においては、くれぐれも危険を冒すことがないよう申し添えておく。
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