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江戸時代の宗教弾圧といえば、キリシタンや宣教師の処刑を思い起こす。しかし、日蓮の教え受け継ぐ日蓮教団の一派が弾圧されたことは、それほど知られていない。
日蓮は、法華経の正しさを説くとともに、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗派を激しく攻撃した。その宗教思想の一つに「不受不施」がある。他宗派からは布施を受けず、供養も施さない、ということだ。
しかし時代を経るにつれ、権力者と妥協あるいは他宗派と共存する必要から、「不受不施」は厳格に守られなくなった。そんな宗教の変容を堕落と見なし、原点回帰を唱える人は必ずいる。キリスト教では聖書に帰るよう主張したルター、イスラム教ではコーランに帰るよう主張したワッハーブ派がそうだ。日蓮教団にも原理主義的な考えを主張する僧侶がいた。
千葉市緑区誉田町二丁目に「恕閑塚(じょかんづか)」がある。市指定史跡である。
日蓮教団で「不受不施」を主張し、秀吉や家康が呼びかけた供養への出仕を拒否したのが、日奥上人である。日奥に同調しただけでなく、徳川家の保護する浄土宗との宗論を行ったのが、日経上人である。耳鼻をそがれるという残虐刑を幕府から受けた。その上人の弟子が、本日紹介する日浄上人である。千葉市教育委員会による説明板を読んでみよう。
日蓮の精神を守り、釈迦の真実の教えである法華経を唱えるよう熱心に説いた日経の門流は、不受不施派と同じく徳川幕府に弾圧されました。日経の弟子・蓮照院恕閑日浄は寛永11年(1634)野田村中宿(誉田町1丁目)に本門山本覚寺を創建し、盛んに布教しましたので、翌年8月5日、日浄をはじめ信徒を含む6人(一説に9人)は検挙され、江戸に護送、8月下旬、江戸より東金まで引廻し、9月5日村境のこの地で磔刑にされました。本覚寺も焼打ちされ、以来、村に寺がなく、生実(おゆみ)の本満寺の檀家となっています。この処刑に対し信徒の中に殉死するものもいました。刑場は6人の遺体を埋葬して恕閑塚又はお塚山といわれています。西方約350mには、刑に使った槍や刀を洗った血洗いの池(刀洗いの池ともいう)がありましたが、池の水は枯れ、埋め立てられた僅かな凹地が昔の物語を示すだけになりました。
碑には「口碑に斬首古記は則ち磔刑と伝ふ」とあり、処刑の方法については諸説あるようだが、この地が宗教弾圧の現場だったことは忘れてはならない。しかし、弾圧によっても信仰の火は消えなかった。大網街道を西に進んで、次の史跡を訪ねよう。
千葉市緑区誉田町一丁目に「五日堂の五輪塔」がある。市指定の有形文化財(建造物)である。
先に紹介した「恕閑塚」もこの「五日堂の五輪塔」も、どちらもお墓のようだが、どのような関係にあるのか。千葉市教育委員会による説明板を読んでみよう。
斬首された日浄の首は信徒によって密かに刑場から村の墓地に埋葬され、目印に杉苗1本が植えられました。また、高田村の源右衛門は供養のため五輪塔を造リましたが、幕府の目を恐れ土中に埋めました。その後も日浄の教えは村の人々によって密かに受け継げられました(納戸題目、小座の題目)。明治11年、五輪塔が掘出され、近くに小さな堂を建て、日浄の命日をもって五日堂といいました。堂は傷み新に公会堂を建て、目印の杉は枯れ切り倒されました。
信仰に殉じた日浄の教えは村人によって密かに守られた。家の奥の部屋や離れで読経したので「納戸(なんど)題目」「小座(こざ)の題目」と呼ばれた。九州の潜伏キリシタンのようでもある。
現在この地区の人々は、千葉市中央区生実町の本満寺の檀家になっているという。本満寺は顕本法華宗という日蓮系の宗派である。「経巻相承」「直受日蓮」といい、法華経や日蓮の言葉に直接学ぶ信仰を守っている。
これを原理主義というと、どこか過激なイメージが付きまとい、語弊を生ずる恐れがある。日経上人や日浄上人を顕彰するのは、権力に屈しない宗教家としての姿勢を評価しているのであって、他宗派を否定する意図はまったくない。ダイバーシティが尊重される現代にあって、さまざまな信仰の共存共栄は当然のこと。ただ、初心に帰るという考え方は、勉強であれ仕事であれ、人生に欠かすことのできない指針であることは確かだ。
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