すず派?アリス派?どっちも派!といわれるなど、美しい姉妹を世間は放っておけない。これは何も今に始まったことではなく、平安時代の『伊勢物語』初段以来の伝統文化でもある。
昔、男、初冠(うひかうぶり)して、平城の京、春日の里にしるよしして、狩りに往(い)にけり。その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいまみてけり。思ほえず、ふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
むかし、ある男が元服して、奈良の都の春日の里に領地があるので、狩りに出かけた。その里に、清楚でとても美しい姉妹がいた。男は物陰からそっと見ただけで、さびれた都で思いがけず出会った美しい姉妹に心が乱れてしまった。
昔男は、稀代のプレイボーイ、在原業平(ありわらのなりひら)のことだとされる。本日はそのお兄さん、行平(ゆきひら)の物語である。
神戸市須磨区離宮前町一丁目に「松風村雨堂」がある。市の地域文化財(史跡)に認定されている。
在原行平と須磨については、「光源氏のわび住まい」で少し書いた。「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答へよ」(古今集・雑下962)の詞書(ことばがき)を読んでみよう。
田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける
文徳天皇(御陵は「たむら」のみささぎ)の時代に、あることに連座して摂津須磨に謹慎していた時に、宮中の人に送る。行平は実際に須磨でわび住まいをしていた。そこで出会ったのが「松風(まつかぜ)」「村雨(むらさめ)」と呼ばれる美しい姉妹である。男女が出逢えば物語が始まる。いったいどのような話なのか。神戸市教育委員会、須磨区役所、西須磨協議会、松風村雨堂保存会の四者連名による説明板があるので読んでみよう。
平安時代前期(九世紀中頃)在原行平が、須磨の地で寂しく暮らしていた時、潮汲みに通っていた多井畑の村長の娘である姉妹に出会った。その時、松林を一陣の風が吹きぬけ、娘たちの頬を通り過ぎ、にわか雨が黒髪にふりかかった。そこで行平は娘たちに、「松風」「村雨」の名を与え、仕えさせた。
やがて許されて、行平は都に帰ることになり、小倉百人一首で有名な
立ちわかれいなばの山の峯におふる
松としきかば今かへりこむ
の歌を添え、姉妹への形見として、かたわらの松の木に烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)を掛け遺し、都に旅立った。
姉妹は、行平の住居の傍らに庵(いおり)を結び、観世音菩薩を信仰し行平の無事を祈っていたが、後に多井畑に戻り世を送った。
堂の隣には「衣掛松」の古株と三代目がある。烏帽子と狩衣を掛けた松を偲ぶことができる。
姉妹はもとの名を「もしほ」「こふじ」といった。華やかな都から来た行平は、田舎娘に源氏名を与え寵愛したという。平清盛に愛された白拍子姉妹、祇王・祇女を思い出す。祇王・祇女が清盛に捨てられたように、行平も松風・村雨を置いて帰京してしまうのだった。しかも、思わせぶりな歌を残して。
おまえたちと別れて都に帰るが、稲葉山の峰に生えている「マツ」のように、「待っている」と聞いたならば、今すぐ帰ってこようぞ。稲葉山は須磨の月見山のことである。山陽電鉄の駅がある。ただし通説では、行平が因幡(いなば)国に赴任する際に詠んだ歌で、鳥取市の稲葉山のこととされている。
ここ須磨を舞台に、「わくらばに」と「立ちわかれ」の二つの歌がうまく解釈されてストーリーがつくられている。能の名曲「松風」では、松風と村雨の霊が次のようなやり取りをしている。『国文学類選戯曲篇』(成美堂書店、大正10)より
松風「あらうれしや。あれに行平の御立あるが、松風と召されさむらふぞや。いで参らう」
村雨「あさましや。其の御心故にこそ、執心の罪にも沈み給へ。娑婆にての妄執をなほ忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。行平は御入りもさむらはぬものを」
松風「うたての人のいひごとや。あの松こそは行平よ。たとひ暫しは別るゝとも、まつとし聞かば帰りこんと、連ね給ひし言の葉は如何に」
村雨「実になう忘れてさむらふぞや。たとひ暫しは別るゝとも、待たば来んとの言の葉を」
「あら、あそこに行平さまがいらっしゃる。松風!とお呼びになってるわ。さあ行きましょう」
「なに言ってんの。行平さまにばっかり心がとらわれてしまって。生きていた頃の迷いをまだ忘れてないのね。あれは松よ。行平さまなんて、どこにもいないわ」
「ひどいことを言う人ね。あの松こそ、行平さまよ。たとえ、しばしの別れがあっても『まつとし聞かば今帰りこむ』とおっしゃってくださったじゃない。忘れたの?」
「そういえばそうね。すっかり忘れていたわ。しばしの別れがあっても、待っていてくれるなら帰ってこよう、とのお言葉を」
美しい姉妹をこのように待たせていた行平は、帰ってきたのか? 否。だからこそ姉妹は霊となっても妄執にとらわれているのだ。霊は待ちこがれる気持ちでひとしきり舞った後、僧に弔いを頼んで消えていく。どっちも派で罪な行平は、けっこう長生きして出世もしているが、謡曲『松風』では、都に帰ってほどなくして亡くなった、とされている。
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