江戸幕府は海外情勢をどのくらい正確に把握していたのだろうか。例えば、ピューリタン革命で国王チャールズ1世が処刑(1649年1月30日)されたことは、約1年半後の50年8月8日付「阿蘭陀風説書」の次のような報告で知った。日本古文化研究所『阿蘭陀風説書の研究』(昭和12)より
イギリス国王に関しては、宗教に反対して起れる流血の内乱に由来するものにして、それは、国王並びに議会は、今に至るまですでに九ヶ年に亘りて戦ひつゝあるが、耶蘇会が将来国王に、己が宗派のみの支持によりて治めしめんとするに対し、我らの宗教〔新教〕たる議会は(国王が国家に対してなせる誠実の宣誓の遵守せられざるを見て、国家統治の古来の慣行を維持せんがために)国王に反抗して起ち、遂に国王を戦争中に捕へて断頭台上に送れり。
現代の私たちが世界史で学習するのと同程度の内容は伝わっている。幕府がオランダと通商関係を維持したことは、情報収集に大きな役割を果たした。では、逆に日本のことはどれくらい海外に伝わっていたのだろうか。ここでも、オランダが大きな役割を果たしている。
東京都中央区築地一丁目に「桂川甫周屋敷跡」がある。
桂川甫周は、元旦のNHK正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』にエリート蘭方医として登場し、迫田孝也が演じていた。ドラマのストーリーは蘭学の記念碑的著作『解体新書』の刊行が中心であったが、本記事の話題はそれよりずっと後の話である。
寛政五年(1793)9月18日、ロシアから帰還した漂流民、大黒屋光大夫は、将軍家斉の御前で幕府から尋問を受けた。そこに立ち会い記録を残したのが桂川甫周であった。『漂民御覧之記』には、次のような問答が記されている。
問
彼地ニテ日本ノ事存居候哉
答
何事ニヨラス能存罷在候。日本ノ事実ヲ詳ニ記候書物并日本図抔モ見及申候。日本ニテハ桂川甫周様中川淳庵様ト申御方ノ御名ヲハ何レモ存居申候。日本ノ事ヲ書候書物ノ中ニモ書載有之候様ニ承及申候。
ロシアでは日本のことを知っておるのか。
はい、何でもよく知られております。日本について詳しく記した書物や日本地図なども見ました。日本人では桂川甫周様と中川淳庵様と申される方のお名前が知られております。日本について書かれた書物の中に記載されていると聞いております。
これには、その場にいた甫周もビックリしたことだろう。まさか自分の名前がロシア帰りの漂流民の口から出て来るとは。みなもと太郎『風雲児たち』第16巻(潮出版社)でも描かれている名場面だ。
では、甫周と淳庵の名が記された書物とは何だろうか。スウェーデンの植物学者ツンベルク(ツュンベリー)は、安永四年(1775)に長崎のオランダ商館の医師として来日し翌年まで滞在した。商館長の江戸参府にも随行し、植物採集や学術交流を積極的に行った。この時、交流したのが甫周と淳庵である。
ツンベルクは帰国後の1784年に『日本植物誌』Flora Japonicaを出版した。この書物に登場するのが甫周と淳庵の名前だ。実際に調べてみると「Kafragawa FOSIU」「Nakagawa SUNNAN」と記されている。オランダ、スウェーデン、ロシアなど、欧州にその名を知られた桂川甫周とは、どのような人物なのか。中央区教育委員会の説明板を読んでみよう。
四代甫周(一七五四?~一八〇九)は、名を国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代のなかでも特に広く知られています。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして「解体新書」の翻訳事業に参加しました。また、寛政六年(一七九四年)には幕府医学館教授となるなど、幕府にも重んじられていました。
西洋事情にも造詣が深く、安永元年(一七七二年)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、その海外知識を大いに広めました。また、ロシア使節ラクスマンが送還してきた漂民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを尋問し、「漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)」や「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」などを著しています。この他にも、多くの翻訳・著作があり、江戸蘭学の興隆に大きく寄与しました。
特に「北槎聞略」は当時のロシア研究の最高峰であるとともに、井上靖の傑作『おろしや国酔夢譚』の情報源となったことで有名だ。大黒屋光太夫の遭難事件そのものは悲劇であったが、光太夫の生き抜く力によって無事に帰還でき、博学な甫周によって記録が後世に残され、井上靖によって感動的な歴史小説に仕上がった。国際的に知られる一流の知識人、桂川甫周を日本人が知らないでいるわけにはいかない。
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