「一番乗り」というのは何事につけても気分のよいものだ。平昌オリンピック出場決定一番乗りは、アイスホッケー女子のスマイルジャパンだったが、初勝利(対コリア)まで時間がかかり、結果は6位に終わった。「一番乗り」は今、新聞のスポーツ欄の見出しで見かける。もともとは戦場において敵陣に最初に突入することをいう。
福山市北吉津町二丁目に「水野勝俊墓域」がある。市の史跡に指定されている。バックの博物館の看板とは何ら関係がないが、けっこう大きな五輪塔なので、つい一緒にレンズに収めたくなる。
福山城を築いた水野勝成については「福をもたらした郷土開発の父」でレポートしたが、本日紹介の勝俊は勝成の嫡男で二代藩主である。福山市教育委員会の説明板を読んでみよう。
福山藩二代藩主水野勝俊は、父勝成に劣らぬ武勇の士で、島原の乱では原城一番乗りを果たしたと言われています。藩政では勝成の事業を継承し領国経営に尽力しますが、承応四年(一六五五)五八才の時、江戸で逝去しました。
勝俊は日蓮宗に帰依していたために妙政寺に葬られ、その死に殉じた七人の殉死者の墓が勝俊を守るように墓前に並んでいます。
水野勝成・勝俊父子が立派なのは、領国経営に尽力したことである。民生の安定は統治の根本である。勝俊の代には、ため池百選になっている服部大池の築造や引野新開などの新田開発が行われた。とはいえ、実際には隠居した父勝成の差配だったらしい。
ここでは勝俊の名誉のために、原城一番乗りの話をしよう。湯浅常山による軍談書『常山紀談』の「水野勝重父子有馬永純本丸一番乗を論ぜられし事」には、次のように記述されている。
水野父子横さまに面もふらず切かゝりて三の丸より本丸へ逃入る一揆を討取る事数をしらず、本丸の石壁より打出す鉄砲の玉霰の飛ちるが如し、石壁は五間七間計も高く登り兼たる処に、水野父子大音あげて今日本丸を攻とらずは生て誰にか面を向べき、死や/\と声々に呼はりうてども射れどもひるまず、われ先にと攻めかゝる旗奉行神谷杢之允旗十本の内一本持せ来りて自竿に手をかけ、本丸に入らんとす纏奉行進藤七兵衛小野田正太夫金の束のしの馬印をふりかたげ来りて、松の丸に押立しかば、神谷も旗を入れ水野父子の兵念なく石壁を登り本丸に攻入たるを勝成二の丸より見やりて、われ今生の思ひ出なり、美作は大阪にて武功あり、伊織はけふを始めの軍なるに、本丸を攻取りし事家の面目なりとよろこばれたり。
水野父子とは勝俊とその子勝貞のことである。原城に果敢に攻め入って旗と馬印を立てた。これを見た勝俊の父勝成は「おお、わしの一生の思い出じゃわい。子の美作(勝俊)は大坂の陣で武功を立てたし、孫の伊織(勝貞)は今日が初陣じゃのに本丸を攻め取るとは!水野家の名誉じゃ」と喜んだ。
ところが、これには有馬永純(実際は父の康純)からクレームが入る。かなりのやり取りをしたが決着がつかず、水野勝重(勝俊のこと)が「こんな言い争いは無益だ。いくさに慣れた第三者でなくては決められまい」と言うと、康純も穏やかになり、お茶を飲んで帰っていった。水野の家中は「蔵人(康純)は並々ならぬ人なり」とほめあったという。
主張すべきは主張し、収める時には収める。水野も有馬も名誉ばかりに固執しないところが潔い。オリンピックのインタビューを聞いていても、ライバルをリスペクトするような言葉に感動を覚える。武士道は日本固有のものではないようだ。
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