「知の巨人」と呼ばれる人が時々いる。博覧強記で深い論考を著す人である。現代の評論家にも何人かいるようだが、歴史上の人物では、南方熊楠(みなかたくまぐす)の右に出る者はいない。名前からして重厚な雰囲気で、熊野の山奥から登場したような印象だが、城下町の出身である。東京やアメリカ、イギリスで学んだ国際人で、孫文とも親交があった。1867年(慶応三年)生まれなので、昨年が生誕150年だった。
和歌山市橋丁の「南方熊楠生誕地」に熊楠像がある。平成6年に市が建立した。
とにかく凄い人だが、とりわけ有名なのは「粘菌」の研究である。森の中の朽ちた木などにいる菌類らしい。「ミナカタホコリ」という熊楠をリスペクトして命名された種類もある。彼の生涯を端的に説明しているのが、台座に刻まれた碑文だ。読んでみよう。
紀州和歌山が生んだ巨人・南方熊楠は慶応3年(1867)4月15日、ここ橋丁で誕生した。5年後南隣りの寄合町に移転、この周辺で少年時代を過ごす。青年時代にアメリカ、イギリスで独学し、帰国後は田辺に居住、在野で学問一筋の生涯を送り、昭和16年(1941)に死去した。彼の研究は博物学、宗教学、風俗学など多くの領域にわたるが、生物学、特にキノコや粘菌など隠花植物の世界的な学者であり、また日本の民俗学創設において重要な役割を果たした。他方、環境保護に先駆的に取り組み、近代日本の独創的な思想家として高い評価を受けている。
ここに記された数々の事績のうち、近年高く評価されているのは、今から百年以上も前に「環境保護に先駆的に取り組」んだことだ。田辺市のプレスリリース(2017年4月27日)「南方熊楠翁生誕150周年です!!」では、次のように説明されている。
数ある業績の中でも現在特に注目されているのが、明治政府が行った神社合祀政策に反対し、自然保護活動を行ったことです。日本に入ってきたばかりの「エコロジー」と言う言葉を使って、「植物相互の関係」にも着目して自然保護活動を行ったことから「エコロジーの先駆者」とも呼ばれています。
明治39年8月10日に「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件(明治39年勅令第220号)」が公布された。神社等の経済基盤の安定と尊厳の保持をねらいとし、小さな祠などを整理する法令だった。これに対し熊楠は、神社合祀政策が社会や人心、そして文化や自然に悪影響を及ぼすとして、反対の論陣を張った。神社を合祀することは、神林(鎮守の森)をも荒廃させてしまう、と訴えたのだ。
神社合祀政策に対する反対論を環境保護(自然保護)ではなく、かつては次のように意義付ける見方もあった。中山太郎『学界偉人南方熊楠』冨山房(昭和18)より
翁が神社合併に反対した明治四十二三年頃には、まだ国体明徴論など云ふ術語はなかったが、翁の主張し強調した諸点は、全く是れと符節を合はすが如きものであった。
そして、翁の神社合併反対意見は、頗る長文なる上に論旨堂々として正気楮表に溢れ、筆鋒熾烈を極め触るゝもの悉く焼き尽さん慨があった。全文は本書の附録として収載したが、こゝに其の焦点とも云ふべき一節を挙げて、翁が国体明徴論の先駆者であることを証明する。
「国体明徴論」とは、美濃部達吉の天皇機関説を国体に反する学説として排撃し、統治権の主体は国家ではなく天皇にあるとする考えである。誤解のないよう強調しておくが、熊楠は統治権を論じているのではない。神社の存在が人心の感化に大きな効果があることを訴えているのである。歴代の天皇が遵ってきた惟神(かんながら)の大道を、臣民が理解する大切な場所、それが神社なのだ。
戦時中は「国体明徴論」の、現代は「エコロジー」の先駆者だという。熊楠の思想には、いつの時代でも評価されうる先進性があるのだろうか。それとも、後世の論者が自説の正当性を補強するために、熊楠の主張をいいとこどりで利用しているのだろうか。おそらく後者だろう。
だがこれを、ご都合主義などと批判してはならない。歴史を解釈し人物を語るとは、こういうことだ。語っている現在において、出来事や人物にどのような意義があるのか、が強調されるのである。逆に言えば、歴史で何が語られるかに注目すれば、現代社会が見えてくるわけだ。
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