自動車好きな人は、そのフォルムで年代を言い当てることができるだろう。空気抵抗の研究やプレス技術の進歩、そしてその時代の流行によって、丸っこいか角ばっているかが決まってくる。
それと同様に貴重な文化財である石造物にも、その時代特有のフォルムがある。本日は美しい宝篋印塔(ほうきょういんとう)を訪ねたのでレポートする。
備前市木谷に「浦上村宗の塚」がある。市指定の史跡である。
笠の隅飾りが立っている。これは室町時代の宝篋印塔の特徴である。江戸時代になると花弁のように外に開いてくる。この塚は風化が少なく、古い形式を往時のまま伝えている。
さらに、塔建立の由来が明らかであることも価値を高めている。浦上村宗とはどのような人物なのだろうか。備前市教育委員会が作成した説明板では、次のように説明されている。
浦上村宗は、三石城主浦上則宗(のりむね)の二男であるが、則宗の嫡子宗助(むねすけ)が早世のため、永正九年(一五一二)父則宗の死後、三石城主となる。また、小塩(おしお)城で、守護大名赤松家の政治を掌(つかさど)った。
浦上村宗は三石城を根城に、細川高国(たかくに)と組み守護代に就任して上京し、将軍職争奪の中央政治決戦に臨んだが、政敵細川晴元(はるもと)の大軍と摂津に戦って敗れ、享禄四年(一五三一)六月四日、天王寺で戦死した。嫡子政宗(まさむね)、次子宗景(むねかげ)の兄弟が遺体を収めて帰国し、木谷に葬ったと伝えられている。
古老によると、当時船着場だったここ着到(ちゃくとう)(塚のある辺りの地名)に、海路帰国し葬った首塚である、とのことである。
前段の家系の説明は、江戸中期の『備前軍記』巻第一「浦上則宗病死、同村宗赤松に叛く事」が根拠である。読んでみよう。
永正九年春、浦上美作守則宗三石城にて病死、嫡子近江守宗助は、是より先に早世せしかば、二男掃部助村宗家を継ぎ三石城を守り、又小塩の家にありて父のごとく赤松家の仕置をなしける。
ところが、この説明板の最後に示されている系図では『三石町史』を根拠に、次のような順で家督が受け継がれたとしている。
(四)則宗→(五)則景(則宗の子)→(六)祐宗(則景の子)→(七)宗助(則景の子)→(八)村宗(宗助の子)
浦上氏の系図は様々に伝えられ正直よく分からないが、則景、祐宗、宗助は早くに亡くなったようで、実質的には浦上氏は則宗から村宗へと代替わりしたとみてよさそうだ。
浦上則宗は、嘉吉の乱でいったん滅亡した主家、赤松氏を再興したことで知られる。では、村宗は何をしたのだろうか。説明板にあるように「守護大名赤松家の政治を掌った」のだが、当主の赤松義村と対立し、家督を子(後の晴政)に譲らせたうえ殺害した。大永元年(1521)のことである。下剋上の典型例と言えよう。
戦国大名化した村宗は中央政治にも積極的に関わっていく。説明板に「将軍職争奪の中央政治決戦に臨んだ」とあるが、これは12代将軍足利義晴と堺公方足利義維の対立を指す。村宗は義晴方について戦い、主家赤松晴政の援軍を得て優勢かに見えたが、その晴政に裏切られて敗死した。父の仇として討たれたのである。
この戦いは「大物崩れ」といい、本ブログで以前にその戦跡を紹介した。先ごろ中公新書『応仁の乱』がベストセラーとなり、11年に及ぶ泥沼の戦いが注目された。この大物崩れをめぐる動きも負けず劣らずグダグダで、つぶし合いに過ぎなかったことは、その後の歴史が語るとおりである。
村宗を失った浦上氏だったが、子の宗景は織田信長にも認められる戦国大名となる。これは村宗が備前に独自の勢力基盤を固めていたからこそ実現したのだろう。端正で美しい宝篋印塔が村宗のために建立されたのも、その死が子や家臣らに心から惜しまれたからではなかったか。
その浦上氏もやがて宇喜多氏の下剋上で歴史の舞台を降りていくことを思えば、戦国の世に生き残ることのいかに難しいかがよく分かる。それでも、村宗のアグレッシブな姿勢には、現代の乱世を生きる私たちも学ぶべき点があるのではなかろうか。