『のぼうの城』の舞台に行ってきた。これで日本三大水攻めのレポートが完結する。備中高松城、紀州太田城、そして本日の武州忍城である。前二者は秀吉が直接指揮をしていたが、今回は部下の石田三成が寄手の大将である。
しかし、水攻めという奇策には、秀吉自身の強い意向が働いていた。戦法は現地に任せるのではなく、強固な堤防を築くことにより、自らの権力を誇示することが目的化していた。その痕跡が現存しているのでレポートしよう。
行田市堤根(つつみね)に「石田堤碑」がある。
この碑は、石田三成が忍城水攻めの際に築いた堤防の上に建てられている。まずは内容を確認しよう。
凡そ耳目鼻口の心志を感動せしむるや目を最と為す。事の口碑に存するは物の目に存するに如かざる也。汴河の大堤は後の王公をして驕奢を警(いまし)め、西湖の蘇堤は後の士庶をして風雅を慕わしむ。聞くならく、天正十八年庚寅、豊公東征し相模に軍するや、石田三成等を遣わして忍城を攻めしむ。三成旧堤に因りて長囲を築き、利荒の二水を引きて之に灌ぎしも遂に抜く能わずして去る。後来堤漸く圮廃し、纔(わずか)に茲の土を存するのみと云う。蓋し当時民居稀少にして邑を成さざることを知る可し。乃ち、今、開墾して地を尽し、生歯蕃育す。其れ誰の賜ぞや。徳沢浹(うるお)う所感戴せざる可からざる也。増田豊純、堤の湮没(いんぼつ)に就き口碑も従って亡ぶるを慮り、石を樹てて之を表す。其意蓋し永く邑民をして之を望み徳沢を感戴し、且つ多士をして目撃して、乱を治に戒めんと欲すれば也。世の矜伐(きょうばつ)功を勒し、虚しく諛墓(ゆぼ)を設くるものと殊に異る。静軒居士喜んで誌す。天正庚寅、今茲慶応二年丙寅を距ること凡そ二百七十七年なり。秋巌原翬書丹 鈴木群寉鐫
一般に耳目鼻口のうち、もっとも感受性の高いのは目である。口碑は物証にはかなわない。煬帝が築いた汴河の大堤防は、後世の王侯におごり高ぶることを戒めた。蘇東坡が築いた西湖の蘇堤は、庶民にみやびな楽しみを与えた。聞くところによると、天正十八年(1590)秀吉公は小田原征伐に際して、石田三成らに命じて忍城を攻めさせた。三成は古い堤防を利用して長く堤防を築き、利根川と荒川の水を引き入れて水攻めしたが、城を落とすことはできなかった。以来、堤防は徐々に崩され、わずかにここに残るのみとなった。おそらく当時は住む人が少なく、村落が成立していなかったのだろう。ところが、今や開墾により人口が増加した。これは誰のおかげであろうか。その恵みに感謝しないわけにはいかない。堤根村の名主・増田五左衛門は、石田堤がなくなるにつれ伝承も消えていくことを憂い、石碑を建てこれを明らかにすることとした。その意図は、まさしく永きにわたり、この碑を見た庶民が恵みに感謝し、武士が政治を乱さぬよう心掛けるためである。おごり高ぶって功績ばかりを書き付けた墓碑銘とは、まったく異なるものだ。私、寺門静軒(江戸の文人)は喜んで撰文した。天正十八年から現在の慶応二年までおよそ277年経っている。萩原秋巌の書、鈴木群寉の刻である。
風雲急を告げる幕末にあって、史跡保存の意義を語っている。文化財保護の先駆的な記念碑といえよう。時は天正十八年(1590)、小田原城攻囲戦において、圧倒的な秀吉軍を前に唯一の抵抗勢力である北条氏もなすすべなく、天下統一は時間の問題となった。そんな6月上旬、石田三成は支城の一つ、忍城を水攻めにする。
その忍城では運の悪いことに、守将の成田泰季が病死し、子の長親(『のぼうの城』では野村萬斎)が総大将となった。6月7日のことである。これで士気が上がったのか、6月中旬、忍城籠城軍が水攻め堤防を破壊、濁流が三成勢を襲った。有力な支城の鉢形城(6月14日)や本城の小田原城(7月6日)が陥落しても、忍城は持ちこたえていた。
秀吉が水攻めを完遂するよう指示したのは、その頃のことである。7月14日、ついに忍城は開城した。秀吉側にとってはまさしく水攻めの成果だが、忍城側はこれ以上戦う意味がないから開城したまでのことであった。
石田堤碑のあたりを含め282mが「石田堤」として県の史跡に指定されている。堤を固める並木は「石田堤の並木」として市の天然記念物に指定されている。ただし、三成が植えたのではなく、この道が日光脇往還として利用されるようになってから植栽されたようだ。
石田堤碑から南に向かうと「堀切橋」がある。
幾何学模様がスタイリッシュだということで、平成26年度に土木学会選奨土木遺産に選ばれた。建築は昭和8年である。だが、ここで注目したいのは橋の名前である。そう、このあたりが破堤した場所と伝えられている。
もう少し先へ進んで、鴻巣市袋に市の史跡「石田堤」がある。
石田堤は総延長14kmに及んだというが、ここは保存状態がよく、往時の姿を偲ぶことができる。
今度は石田堤碑から北へ向かおう。行き着く先は行田市埼玉の「丸墓山古墳」である。「埼玉古墳群」として国の史跡に指定されている。
この古墳は直径105mで、円墳として日本最大と呼ばれていた。ところが昨秋、奈良市丸山一丁目の富雄丸山古墳が直径約110mと判明したそうだ。だが、ここで注目したいのは丸墓山古墳が、忍城水攻めにおいて石田三成が本陣としたことである。しかも、古墳正面の道は「石田堤」の一部なのである。
水攻めは効果があったのか、なかったのか。忍城開城における効果は限定的だったが、天下統一を象徴するデモンストレーションとしては成功したと言えるだろう。いっぽう、忍城は領主領民一体となって小田原開城後まで持ちこたえた。今に残る石田堤は、メンツと意地をそれぞれに語り伝える史跡である。
石田堤碑の碑文は、壮大な堤防を無用の長物と喝破して戦乱を戒めるとともに、無用の長物だからこそ取り除いて開墾できたことに感謝している。それを思い出すよすがとして石碑は建てられた。かつての無用の長物は、慶応二年から今に至るまで、有用性の極めて高い文化財として認識されている。
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