「朝日さし夕日かがやく木の下に」と場所を示す上の句に続くのは、「黄金千両、うるし万杯」とか「うるし千杯、朱千杯」という下の句である。財宝が埋まっているというのだ。各地に伝わる朝日長者伝説である。
財宝のうち、黄金はよく知っている。徳川埋蔵金なら私も見つけてみたい。うるしは輪島塗などに使われ、高価なのは分かるが、うるしそのものが欲しいとは思わない。
赤色顔料である朱には、ほとんど魅力を感じないが、なぜ財宝なのだろうか。朱はHgSという成分で、鉱物としては「辰砂(しんしゃ)」とか「丹(に)」と呼ばれる。
どのような色でも作り出せる現代はありがたみがないが、鮮やかな赤色が珍しい古代には、とても大切にされていたようだ。その「朱」にまつわる古墳を訪ねてみよう。
赤磐市穂崎に「朱千駄古墳」がある。前方後円墳であり、写真は西から後円部を写している。
「駄」は、駄菓子のように「つまらない」という意味ではなく、馬一頭が背負う荷物の量を表す。千駄はものすごい量になるが、とにかくたくさんの朱が見つかったということらしい。
朱が入っていたのが、この石棺だ。
現在は岡山県立博物館の玄関前に展示されている。向かいにある後楽園に訪れる人は多いが、この石棺を気に留める人はほとんどいない。説明板を読んでみよう。
朱千駄古墳は、両宮山古墳の南西、山陽町の平野部の西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。
後円部中央に、墳丘軸線に平行して埋められていたこの石棺は、6枚の石で組み立てられた長持(ながもち)形石棺で、ふちに縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石(たつやまいし)である。
石棺内からは、古墳の名称のもととなった多量の赤色顔料と、勾玉、管玉を含むおびただしい数の小玉や、鉄槍・蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。
長持形石棺は古墳時代中期に、天皇陵や地方の最有力者の墳墓に採用されている。朱千駄古墳は両宮山古墳の後継的な位置付けで、両宮山が反乱伝承のある吉備田狭の墓だとすると、朱千駄の存在は吉備氏が必ずしも衰退したわけではないことを示している。
縄を掛ける突起がきれいに加工されている。石材は竜山石で、軟質で加工しやすいうえに耐久性もあるという優れものだ。岩石としては流紋岩質凝灰岩で、日本三奇「石の宝殿」の素材としても知られている。
この博物館の片隅に、ひっそりと置かれた石棺。その中に納められ、死後の世界を彩った朱。岡山を代表する名園もいいが、岡山を代表する豪族の権勢にも関心を寄せていただけたら幸いである。
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