「悪女」という言葉を知ったのは、中島みゆきの歌が流行った頃だ。タイトルの割には明るい曲調だが、どこか切なく感じるのは「夜明け」を歌っているからだろう。当時は、夜遊びする女だから悪い、と単純な理解しかできなかったが、大人になるにつれ「歴史は夜つくられる」ことが分かってきた。
河内長野市寺元の観心寺境内に「コウボ坂陵墓参考地」があり、新待賢門院の墓とされている。
新ではなく旧(?)の待賢門院は、鳥羽天皇の皇后で、崇徳天皇と後白河天皇の母である。名を璋子(しょうし、たまこ)といい、大河ドラマでは、檀れいがお手本のような美しさで演じていた。院政期の王家は、愛憎の念が交錯するドロドロの世界である。待賢門院璋子も当初は順風満帆の宮廷生活であったが、後ろ盾であった白河院の崩御後は権勢を失ってゆく。
その名にあやかる新待賢門院とは、どのような女性だろうか。名は阿野廉子(あのれんし)。後醍醐天皇の寵妃で、後村上天皇の生母である。後醍醐帝には禧子(きし)という正式な妃がいたが、やがて禧子に仕えていた廉子を寵愛するようになる。隠岐に同行したのも廉子であった。南北朝分立後は、後醍醐帝と愛息後村上帝を支え、南朝の勢力維持に一定の役割を果たした。正平六年(1351)の南朝の勝利(正平一統)に際して、「新待賢門院」という院号を受けた。
この廉子、『太平記』では、次のように評価されている。
巻第一「立后事附三位殿御局事」
其比(そのころ)安野(あの)中将公廉(きんかど)の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候(さぶら)はれけるを、君一度(ひとたび)御覧ぜられて、他に異なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮(りつきう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無が如也。都(すべ)て三夫人九嬪(ひん)二十七世婦(せいふ)、八十一女御、曁(および)後宮の美人、楽府(がふ)の妓女と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を附(つけ)られず。啻(ただ)に殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独能是(ひとりよくぜ)を致(いたす)のみに非ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだち)て、奇を争(あらそひ)しかば、花の下(もと)の春の遊、月の前の秋の宴(えんにち)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席を専(ほしいまゝ)にし給ふ。是より君王朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚見る、光彩の始(はじめ)て門戸に生(な)ることを。此時天下の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(こうじゆ)とだに云てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞を与(あたへ)、奉行も理有(りある)を非とせり。関雎(くわんしよ)は楽而不淫(たのしんでいんせず)、哀而不傷(かなしんでやぶらず)。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱今に有ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共也。
その頃、阿野公廉の娘で「三位殿の局」という女房が、中宮禧子さまにお仕えしていたが、後醍醐天皇は一目見て恋心を抱いてしまった。たくさんの侍女にかけるべき愛情を一身に集め、中国宮廷の美女も顔色を失うほどだ。我が国の宮廷のどんな美女も、天皇の気を引くことはできなかった。この女房は単に美しいだけでなく、言葉巧みに帝をとりこにし、普段できないような春の花見、秋の月見を催し、常にともに行動するというありさまだった。これより天皇は政治をしなくなった。女房はすぐに准后の処遇を受けたので、人はみな皇后のように思った。おかげで阿野一族が取り立てられて権勢を誇り、世の人々は同じ生むなら男の子より皇后となる女の子のほうが価値があると言った。後醍醐帝がお決めになることから一般の裁判までも、にわかに准后となった女の口利きと言われた。公家は功績もないのに恩賞を与えられ、役人は正当な申し出であっても受け付けなかった。仲の良い夫婦は、度の過ぎた遊びをせず、傷つけ合うこともしない。詩人はこれこそ、皇后の人徳だとした。ところがどうだろう。今は国を亡ぼす大乱となる予感さえするほど、ひどいありさまだ。
玄宗皇帝と楊貴妃との故事を思い起こさせる。まさに傾国の美女だったのだろう。一人の女性を特別に寵愛するだけなら宮廷内の私事で済むが、一族が優遇されたり、口利きに役人が忖度するようになると、政治がゆがめられる。
小学校建設で首相夫人が問合せをすることで、神風が吹き始めたモリ問題のようなものだ。獣医学部新設で「いいね」という首相の発言によって、お友達の大学が丸もうけしたカケ問題のようなものだ。
阿野廉子の場合はどうだろうか。政治が次のようにゆがめられたという。
巻第十二「兵部卿親王流刑事附驪姫事」
抑(そも/\)今兵革一時に定(さだまつ)て、廃帝重祚を践(ふま)せ給ふ御事、偏(ひとへ)に此宮の依武功(ぶこうによる)事なれば、縦(たとひ)雖有小過(せうくわありといへども)誡而(いましめて)可被宥(なだめらるべ)かりしを、無是非(ぜひなく)被渡敵人手(てきじんのてにわたされ)、被処遠流(をんるにしよせらるゝ)事は、朝廷再び傾(かたむい)て、武家又(ぶけまた)可蔓延(はびこるべき)瑞相(ずゐさう)にやと、人々申合(まうしあひ)けるが、果して大塔宮(おほたふのみや)被失(うしなはれ)させ給し後、忽(たちまち)に天下皆将軍の代(よ)と成(なつ)てげり。牝鷄(ひんけい)晨(あした)するは家の尽(つく)る相なりと、古賢の云し言(ことば)の末、げにもと被思知(おもひしられ)たり。
さて、戦乱が一時的に収まり、後醍醐天皇が皇位に復帰したことは、ひとえに大塔宮護良親王の武功によるのだから、たとえ小さな過ちがあったとしても、戒めて寛大に扱えばよかったものを、是非を論じることなく身柄を敵の手に渡し、遠流に処してしまった。この一件は、朝廷による新政が危うくなり、武家政治が復活する兆しだと、人々は噂し合っていたが、はたして大塔宮殺害後ほどなくして、足利尊氏が幕府を開いたのであった。「めんどりが朝を告げるのは家が衰退する兆し」という古人の言があるが、本当にそうだと思い知ったことだ。
護良親王は後醍醐天皇の子だが、廉子の子ではない。護良の失脚は、我が子にチャンスをと願う廉子にとって都合がよかった。事実、皇太子となったのは実子の恒良であり、その死後は同じく実子の義良であった。義良は後村上天皇となっている。ストーリーとしては、すべて廉子が画策した陰謀のように見える。
建武の新政の失敗は、けっして廉子一人が責められる問題ではない。それは、武家の役割を軽んじる公家の政策判断ミスであった。もちろん後醍醐天皇の責任は重大だが、その陰に女ありとすれば、廉子が注目を浴びるのもやむをえまい。
政治の公平性に対する信頼を失墜させたモリカケ問題は日本を暗く覆っているが、めんどりもおんどりも、その仲間たちも、記録も記憶もないと言い張り、朝を告げようとしない。これでは公明正大な日本の夜明けは、当分やってこないだろう。
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