○○文化が日本史にはいくつも登場するが、内容ではなく名称として秀逸なのが「桃山文化」と「白鳳(はくほう)文化」である。単に時代を示しているのではなく、文化のイメージを端的に表現している。「桃山」は華やかな印象、「白鳳」からは瀟洒で洗練された印象を受けるが、どうだろうか。
白鳳文化では、仏教の全国展開により各地に寺院が建立された。古代寺院は、現代の私たちがお寺に抱くイメージとは大きく異なり、学問・芸術・宗教を統括する最先端の総合文化センターであり、その建物は地域のランドマークであった。
本日は、白鳳期に巨大な寺院が建立されたという芦屋からレポートする。
芦屋市西山町に「芦屋廃寺址」を示す石碑がある。碑がなければ何も気付くことはなく、碑があっても巨大寺院など想像すらできない。
昭和43年の建立の石碑があるばかりで、詳しいことが分からない。周辺を探してみると、こんなところに説明板があった。
石碑の近くにあるロイヤル芦屋川というマンションである。建設前の発掘調査で重要な発見があったようだ。平成12年の説明板を読んでみよう。
芦屋廃寺跡(第62地点)
芦屋廃寺は、白鳳期(7世紀後半)に建立された古代寺院です。文献による記録はなく、寺院の名称は不明です。明治時代から採集されてきた古瓦と発掘調査の出土資料のみから古代寺院の存在が推測されてきました。
当地では1999年に発掘調査が実施され、初めて古代の「基壇」と呼ばれる寺院建物の基礎部分が見つかりました。これまで古瓦のみから推測されてきた「幻の芦屋廃寺」がようやく姿をあらわしたといえるでしょう。その成果により、金堂や塔、講堂などの配置された芦屋廃寺の一端が明らかになりました。
芦屋廃寺の存在に人々が関心を寄せたのは、明治時代の終わりごろからである。古瓦は採集されてきものの、寺院建物の痕跡については、21世紀を目前にしてやっと見つかったということだ。
伽藍配置は判明していないが、金堂と塔が左右に並ぶ法起寺(ほっきじ)式だとすると、発掘された建物跡は金堂に位置すると考えられている。というのも、東隣の地から塔心礎が見つかっているからだ。
芦屋市伊勢町の市立美術博物館の前庭に「芦屋廃寺塔心礎」がある。県指定文化財(考古資料)としては「伝芦屋廃寺心礎」という。
芦屋廃寺跡から離れた場所に置かれているが、これには事情がある。昭和11年の調査で確認されたものの、その後市内月若町にあった旧家猿丸家の屋敷内で保存され、邸宅の解体に伴い平成5年に現在地に移されたのだという。
このような大寺院を造立したのは、かなりの権力者であることが想像できるが、いったい誰なのか。『新撰姓氏録』という古代の氏族事典のうち、第廿七巻「摂津国諸蕃」には、次のような一族が記されている。
葦屋漢人(あしやのあやびと) 坂上大宿禰同祖、阿智王之後也
村主(すくり) 葦屋村主同祖、意宝荷羅支王之後也
葦屋漢人さんは、漢から渡来した阿知使主(あちのおみ)の子孫で、有名な坂上(さかのうえ)さんと親戚である。村主さんは、百済から渡来した意宝荷羅支(おほからき)王の子孫で葦屋村主さんと親戚である。
芦屋の地には、中央政権と密接に結びついた渡来系の人々が多く住んでいた。そんな豪族の力量を目に見える形にしたのが、この地にあった大寺院である。それは、当時のモダニズムの先端をいく建造物であったろう。だとすれば、寺の周りには渡来系の人々の高級住宅街が形成されていた、なんてことはないのだろうか。
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