「日本のエーゲ海」とか「西の軽井沢」とか、有名観光地のイメージを借りて宣伝するキャッチフレーズがある。このブログでも「東洋のマチュピチュ」を紹介したことがある。そう言われると確かに、それらしく見えてくる。今日は「ひろしまの明日香村」を訪ねてみよう。
三原市下北方二丁目に「梅木平(ばいきひら)古墳」がある。円墳だと考えられるが原形をとどめていない。この古墳の見どころは、広島県内最大という横穴式石室にある。県指定の史跡である。
明日香村には超有名な石舞台古墳がある。外から撮った写真をよく見るが、中に入るとその大きさに驚く。高さが4.8mもある。ひんやりした空気が流れるのは、お墓だからではなく、地下深いからである。
梅木平古墳の高さは4.2m。こちらも迫力がある。この古墳の意義について、広島県教委と本郷町教委(当時)は連名で、次のように石碑に刻んでいる。
本古墳は七世紀初めごろに造られたもので、東方約二〇〇メートルには白鳳時代の古瓦を出土する史跡横見廃寺跡があり、古代国家成立期にこの地方に高い文化があったことを示している。
7世紀初めとは聖徳太子が活躍していた時代だ。この地の豪族も何らかのつながりを持っていたのだろうか。すぐ近くを通る旧山陽道を西に進むと、もう一つ、見逃せない古墳がある。
三原市本郷町南方に「御年代(みとしろ)古墳」がある。こちらは国指定の史跡で、7世紀中頃の築造と考えられている。梅木平の一世代後くらいだろうか。
精緻な切石の美しさが際立っており、特に石棺はお手本のように美しすぎる。梅木平が見せつける古墳なら、御年代は魅せる古墳と言えよう。しかも石棺の石材は、多くが加工しやすい竜山石であるのに対し、御年代では花崗岩が用いられている。加工技術の進歩がうかがえる。
ここまで進歩した古墳も、これ以降急速に造られなくなる。どうやら、この時期に宗教上の価値観にパラダイムシフトが起きたらしく、地方豪族は寺院建築に力を注ぐようになる。
再び三原市下北方二丁目に戻ろう。梅木平古墳の解説文にも登場した「横見廃寺跡」がある。国指定の史跡である。
廃寺跡に塔心礎でも残っていれば、荘厳な寺院を偲ぶよすがとなる。このブログでも播磨国分寺跡や開法寺塔跡、比江廃寺塔跡など、塔心礎をいくつか紹介したことがある。
ところが、ここ横見廃寺跡は、説明板がなければ何も気付かない、ふつうの景色だ。伽藍配置の全体像は明らかではないが、講堂跡のみ図面で示されている。基壇には平瓦を並べて化粧が施されていたようだ。
とりわけ注目されるのは、古代寺院の特色が明らかとなる軒丸瓦だ。三原市教育委員会作成の説明板を読んでみよう。
瓦類は山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦(火炎文瓦)や忍冬唐草文軒丸瓦をはじめとし、優美な白鳳時代のものが多数出土しており、特に火炎文瓦は飛鳥地方との直接的な交流を物語るものとして注目されている。
ここでいう火炎文とは、蓮の花をモチーフとした軒丸瓦において、花弁の中にある子葉の周りに描かれた火炎状の文様である。忍冬唐草文はパルメット文ともいい、エキゾチックなイメージだ。こちらは法隆寺若草伽藍跡から出土した軒丸瓦にも見られる。
近くにある二つの古墳と一つの廃寺。三つの史跡はすべて、地方豪族がその威信をかけて築いたものだった。中央の最新技術やデザインを導入することで、自らの権威を高めようとしたのである。
「ひろしまの明日香村」石室内部を見学して高度な技術を実感し、廃寺跡で特色ある軒丸瓦の載った建物を想像した今では、確かにそう思える。飛鳥の都とのつながりを強調するのは、国とのパイプをアピールする地方政治家と重なって見えるが、これ以上は言わない。
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