干拓地に住んできたので、井戸を使った生活をしたことがない。ましてや井戸を掘ったことがあるわけない。だが最近は、DYIで井戸を手掘りする人もいると聞く。うまく水が出たなら、水道代が大助かりだ。
今日は菅原道真公自らが掘ったという井戸の話である。助かったのは水不足に困る村人であった。
三原市下北方二丁目の旧山陽道沿いに「甑(こしき)天満神社」がある。御祭神は菅原道真公である。ずいぶん長い坂を登ってやっと拝殿にたどりつく。息を切らしながら手を合わせ、文章博士の菅公に文章の上達を祈願する。
参道入口に「甑霊泉」と刻まれた石碑がある。菅公とのゆかりが記されているようだ。読んでみよう。
古昔醍醐帝延喜元年菅公西謫ノ際茲ニ御舟ヲ寄セラレ手ヅカラ此井ヲ鑿チ給ヒ地人清水ヲ以テ炊飯献リシ遺跡ナリ
昭和三年に北方小学校の校長先生が書かれたものだ。意訳すると、こうなる。
「むかし醍醐天皇の延喜元年(901)、菅原道真公が西国に流されたとき、ここに船を寄せられ、みずからこの井戸を掘られ、地元の人がその水でご飯を炊いた、という遺跡である」
神社のある丘の麓に「菅原道真公御手掘の井戸」がある。
ここには、三原市教育委員会作成の分かりやすい説明板があるので、内容は同じだが書き写しておこう。
途中この地に上陸したところ、人々は水不足でたいへん困っていました。
みかねた道真が自ら井戸を掘りはじめると、こんこんときれいな水が湧き出し人々を救ったのでした。人々はお礼に干し飯(いい)を甑(こしき、蒸し器のこと)で蒸して差し出しました。その後、このご恩を忘れないようにと、みんなで丘に社を建て、甑をご神体として祀りました。
これが岸ヶ丘の甑天満宮です。そのときの井戸は菅公手掘りの井戸として大切に守られ、今も清水をたたえています。
弘法大師なら指図して村人に掘らせるとか、錫杖で地面をつくだけで水が湧き出るが、菅公は自らの手で掘られたという。そして、お礼にと村人が差し出したご飯を「おいしい、おいしい」とお食べになったことだろう。人間的な、あまりに人間的な…。そこが菅公の魅力である。
DIYの井戸掘りでは、掘削の道具を工夫したとか、岩盤に当たって断念とか、苦労話をけっこう聞く。菅公は、おんみずから掘られたとはいえ、「掘りはじめると」水が湧き出したという。これはビギナーズラックなのか霊験なのか。これほどの霊能をお持ちなら、そりゃ、藤原氏も恐れるはずだ。
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