幼年か若年の君主の治世を後見役がバックアップする体制は、よくあるが不安定になりやすい。織田家の幼君三法師の後見役は秀吉だった。豊臣家の幼君秀頼の後見役は家康だった。主家は乗っ取られてしまうのである。うまくいったのは、幼君ルイ14世を宰相マザランが後見したケースだ。フランスの中央集権化に成功し、絶対王政への道を開いた。
後見がうまくいくかどうかは、君主と後見役との力関係に左右される。金正恩委員長が叔父で後見役の張成沢氏を粛清したという報道を憶えている方もおられよう。血も涙もないように見えるが、これが政治の現実なのである。
西条市新町に「千人塚」がある。
「千人塚」は各地にあって、一般的には戦乱や天災によって一度に多くの命が失われた際に築かれる塚である。このブログでも倉敷市の「千人塚」(天災)、郡上市の「千人塚」(戦乱)、そして豊明市の「戦人塚」(桶狭間)を紹介した。
伊予西条の「千人塚」には、どのような由来があるのだろうか。説明文を読んでみよう。
天授五年(一三七九)十一月六日、佐々久原に於て伊予の将河野通堯軍七千と阿波讃岐、土佐の将細川頼之軍四万が激突、河野軍の敗北に終った。このとき両者の戦死者を此の地に埋葬した。後の人々はこの塚を千人塚と呼んだ。別名四方塚、大平塚、鬼塚とも呼ばれ、今後このような悲惨な戦いが無いように四方太平を願ったとも云われ、又「このような大石は鬼でなければ積めない」との意味から鬼塚の名もある。この塚は甲賀原古墳群の南端に位置する古墳と云われ直径30メートルを越える円墳であったとも云われる千人塚に利用されたため唯一残ったのではないかと伝わる。
吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会
玄室の天井石が露出している。「鬼でなければ積めない」と人々が畏怖した石である。古代の死者が眠る横穴式石室に、中世の戦死者が追葬された。何百年を経てもちっとも平和になっていないことに、古代人は驚いただろう。
この合戦は、伊予の河野通堯(こうのみちたか、七千)VS 阿波讃岐土佐の細川頼之(ほそかわよりゆき、四万)という構図である。時代を考えると南北朝の争いに思えるが、そうではない。
伊予の河野氏と讃岐の細川氏はかねてから勢力争いをしていた。特に河野通堯は、南朝に味方して勢力を拡大していた。いっぽう細川頼之は、若年の将軍足利義満を補佐して幕政の実権を握っていた。
ところが、天授五年(康暦元年、1379)に康暦の政変で、細川頼之が幕府から追放されてしまう。反細川派の斯波氏からの罷免要求を将軍義満が認めたのである。二十歳を過ぎた義満も、頼之からの自立を図ったのであろう。
これを機に河野通堯は南朝を見限り、幕府の反細川勢力に接近するのである。9月5日、幕府は細川頼之追討の御判御教書を発した。これにより通堯は幕府の正規軍として、頼之と戦うこととなった。
ところが結果は上記のとおり百戦錬磨の頼之の勝利。頼之の強さを認めた将軍義満は、頼之を赦免するとともに細川氏も幕政に復帰させた。その後、義満は守護大名の勢力を抑制して幕府の権威を確立していく。後見役の頼之にとっても若き将軍義満にとっても望ましい状況となったのである。
気の毒なのは河野通堯ただ一人。機を見るに敏であり、生き残りをかけて最適解を選択したはずだった。ところがどうだ。返り討ちに遭うという悲劇。官軍である河野軍の兵士も多くが戦場に倒れた。千人塚に太平を願った人々の気持ちがよく分かる。
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