長崎の眼鏡橋や熊本の通潤橋など、石造アーチ橋が九州に多いことは知っているが、お寺の門まで石造アーチになっていたとは! 見慣れないせいか異国情緒さえ感じてしまうこの門には、どのような価値があるのだろうか。
武雄市武雄町大字富岡に「円応寺アーチ型石門」がある。見ようによっては凱旋門だ。
私が訪れたのは夏だから木々は青々と繁っていたが、春になると石畳の参道に桜のトンネルが出現するのだそうだ。なんと美しく平和な光景だろうか。石門については、説明板に詳しく記されているので読んでみよう。
アーチ部分は、下から八段目から切石を組み合わせており、最上部には、幅の狭い切石があります。正面アーチ上部中央に「西海禅林」と記す扁額石があります。この字は、第二八代武雄領主鍋島茂義が一六歳の時に書いたものだと言われています。
規模は、幅四.八五m、厚さ〇.九七m、高さ四.一七mで、屋根は切妻になっています。
建立年代は、背面向かって右の銘文より「文化十四年」(一八一七)になります。
この種の門としては、長崎県の三か所が知られていますが、アーチの組み方が円応寺アーチ型石門とかなり異なり、かつ、屋根もかなり簡略化されており、これ程整ったアーチ型石門は、他にあまり見当たらなく、建立年代もはっきりとしており、石造建築史上価値が高いものです。
平成五年四月三十日 武雄市 重要文化財(建造物)指定
「西海禅林」とは「西海道である九州を代表する禅寺」を意味しているのだろう。この字を書いた鍋島茂義は開明的な殿様で、佐賀藩近代化の先駆けの役割を果たした。茂義公が28代だという「武雄領主」というのは、前九年の役で戦功のあった後藤章明(のりあきら)がこの地の地頭となったのを初代とし、近世になって鍋島に改姓し、29代まで続いて明治に至った武家である。
「西海禅林」文字を見た筑後の使者に「拙い書」と指摘されたことをきっかけに、茂義公は書画に励み、たいへん上達したという逸話も残っている。見るべき石造建築は、これだけではない。参道をゆっくりと下ってみよう。
円応寺参道入口に「円応寺鳥居型石門」がある。ガッツポーズをしているように見えて可愛らしい。
美しいフォルムのこの石門は、いくつの石材から組み立てられているのだろうか。説明板を読んでみよう。
安山岩(塩田石)切石を基礎石に、几帳面取り角石を二個積み上げて柱としてあります。貫(ぬき)は虹の形の一本ものです。正面に文様を彫り込んであります。笠木は三本組みで、全体的に強い反りをもち、両端は渦巻きになっています。中央に「白雲関」の石造相額がかかっています。
規模は、内法幅二.七六m、高さ五.〇一mで、建立年代は、向かって右側柱左側面の銘文に記してある「寛政十年」(一七九八)です。因に、銘文は他に「施主古川長衛慰中行 北川郷右衛門慰好信」「願主 江口卵兵衛慰親澄 原松右衛門 小奉行 眞名子嘉太八田代蔵七 石工 塩田住 筒井興四右衛門 同名幸右衛門」と記してあります。
この種類の石造門は法音寺(臼杵市二玉座・明治十一年建立)に類似の門がある程度で、はっきりした江戸時代の鳥居型石門として、石造建築史上価値の高いものです。
平成五年四月三十日 武雄市 重要文化財(建造物)指定
説明文を参考にパーツを数えると、全部で9つあるようだ。「白雲関」の白雲は、何事にもとらわれない融通無碍(ゆうずうむげ)の境地を表している。自由への入り口がこの門なのだ。そう思いながら、参道を静かに歩いてアーチ型石門に至れば、すでに別世界に足を踏み入れている。
建造物と人の心。形あるものとないもの。まったく別のものでありながら、美しいフォルムは、人の心を惹きつけてやまない。建築デザインが心の鎖を解き放ってくれるのである。
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