「元寇」は今や歴史の一場面であるが、当時は国家の存亡のかかった一大決戦であった。特に激戦地となった九州北部では、その記憶は長く語り伝えられ、やがて伝説と化していく。本日は、苔むした五輪塔が奏でるレクイエムに耳を傾けよう。
武雄市武雄町大字富岡の諏訪神社のうしろに「八並さん」がある。
ずんぐりとした五輪塔の笠石には、軒下に見られるような垂木が造り出されていて珍しい。諏訪神社入口の説明板には、次のような伝説が紹介されている。
神社のうしろに、「八並さん」といわれる、大きな五輪塔がある。これは、八並の領主が元寇(1274年)のとき、乗っていた白馬がつまずいて落馬し、戦死したのを葬り、その家族ものちに葬られたと云い伝える。以来、明治になるまで、八並区民は、馬を飼わなかったと云う。
このあたりは肥後後藤氏の勢力が強く、文中の「八並の領主」とは、八並後藤3代目の後藤信明であった。未曽有の国難に際して、信明は白馬にまたがって颯爽と出陣したのであるが、落馬して戦死という悲運に見舞われる。
信明の死を悼んだ人々は、落命のきっかけとなった馬を飼わなくなったという。各地に伝わる禁忌伝承の一つである。このブログでも「戦国の姫君を守り抜く知恵」で、こいのぼりを立てない地区を紹介したことがある。
元寇は確かに国難であったが、太平洋戦争のような総力戦ではなかった。動員は九州の武士を中心に行われたことを、この「八並さん」から知ることができる。領主さまが戦没した文永の役は、神風が吹いて日本が勝利したことばかりが有名だが、博多湾に上陸した元軍の侵攻を阻んだのは、地方武士であったことを忘れてはならない。
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