何とか御前という人名でもっとも著名なのは、源義経の愛妾、静御前だ。この時代には「御前」と呼ばれる女性が多く、木曽義仲の愛妾は巴御前、平清盛に寵愛された白拍子は仏御前、源頼朝のお母さんは由良御前という。また、胎内市で有名な勇婦に板額御前という方もいる。
本日は仇討で有名な曽我十郎の恋人、虎御前の話をしよう。
武雄市武雄町大字富岡に「八並(やつなみ)の石塔」がある。市の重要文化財(建造物)としては「石造八並の塔」と呼ばれている。
3m近くある巨大な石塔で、鎌倉時代後期から室町時代の制作という。圧倒的な迫力が感じられ、信仰の対象にふさわしい。いったいどのような由来があるのだろうか。写真とは別の説明板には、次のように記されている。
建久四年(1193)、源頼朝が、富士の裾野で催した「巻狩り」は、曽我兄弟の仇討ちで、世に知られている。曽我兄弟は、父の仇工藤祐経(くどうすけつね)が、この巻狩りに参加していることを知り、夜の暗にまぎれて忍びこみ、無事に仇を討つ。ところが、陣中は大さわぎとなり、兄の十郎は殺され、弟の五郎は捕えられ、やがて鎌倉の牢屋で病死した。
十郎の許婚者であった大磯の虎御前は、黒髪を切り落とし、兄弟の冥福を祈るため、善光寺の尼さんになった。
ちょうどその頃、佐賀の小城の里に、西国一と云われる岩蔵寺が建つと聞いて、虎御前は九州に下ってきた。その途中、中国と四国に、それぞれの石塔を建てて、兄弟の冥福を祈ったと云う。三番目に建てたのが、八並の石塔である。(武雄市重要文化財)
虎御前は、小城の岩蔵寺で、写経と読経の毎日を過ごしながら余命を全うしたと伝えている。
善光寺から九州に来る途中、中国と四国でそれぞれ石塔を建てたという。中国地方と虎御前なら、安芸高田市の曽我神社を「雨となった虎の涙」という記事で紹介した。だが、虎御前が亡くなった地だと語られている。ゆかりの地は各地にあるが、諸国を遊行した修験比丘尼が伝播者だと考えられている。
よく見ると塔身に小さな穴が開いている。自然現象ではないようだ。写真に写る説明板には、次のように説明されている。
石塔の各所に盃状穴(はいじょうけつ)と呼ばれるくぼみがある。盃状穴が掘られるようになった理由は不明だが、一般的に願掛けの一種と言われている。この石塔が長い間、地域の信仰の対象になったことの表れと考えられる。
願掛けに墓石を削る話は「いぼ神様になった巨勢金岡」で紹介したことがある。この巨塔にはどのような願いが託されたのか。
愛する人を失い、遥か九州まで旅して菩提を弔った虎御前。出会いがあれば別れも必ずやって来る。虎御前を信仰する人々は、会者定離という運命に立ち向かう勇気を見つけることだろう。
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