昨年、中公新書『応仁の乱』がベストセラーになった。広告のコピーが「地味すぎる大乱」「スター不在」「知名度はバツグンなだけにかえって残念」と、なかなか秀逸だった。
スターがいないとはいえ、西軍の総大将である山名宗全はかなり有名だ。ただし、乱の始まりに登場するのみで、その後の動向が語られることは少ない。
ましてや宗全亡き後の山名家はどうなったのだろうか。戦国の世、さらには近世社会を生き延びることができたのか。多くの守護大名がそうであったように、下剋上で滅亡したなんてことは…。
兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の御殿山公園に「村岡陣屋」があった。公園の入口にむかし風の門がある。昭和期には県立村岡高等学校があったという。
ここが山名氏ゆかりの場所だと聞いたので、狭い坂道を車で登った。門をくぐってすぐに村岡陣屋の由来を記した石碑がある。読んでみよう。
村岡陣屋は、山名持豊(宗全)公の後裔にあたる山名豊国(禅高)公が、徳川家康公から関ヶ原の戦功により、慶長六年に七美郡六千七百石を拝領、執事等を派遣し兎束村(現福岡)下中山に領内仕置き機関をおいて、村岡山名を誕生させたことに由来する。
慶長十九年に三代矩豊公が当地に初入部、黒野村を村岡と改めて、陣屋を現在の資料館「まほろば」付近に設け、城下の町割りを行い、村岡を本拠とし領地を治めて以来、陣屋町、宿場町として江戸時代に栄えた。
文化三年には、八代義方公がこの地尾白山の中腹に陣屋政庁を移し、大手門、中門、長屋、鎮守社、煙硝蔵、練兵場等を設けて山名氏の家格に相応した体裁を整えた。
慶長四年十一代義済公の時、一万一千石となって立藩した。しかし、明治四年には廃藩村岡県となり、同六年の廃城令によって翌年陣屋や石垣等すべて取り除かれた。
幕藩時代二百七十年の間、国替えもなく連綿とつづいた村岡山名の事績を偲んで陣屋の沿革を刻み此処に建立する。
平成六年九月二十八日
山名氏の系譜は、宗全(持豊)-教豊-政豊-致豊-豊定-豊国と続く。豊国は、秀吉に攻められ居城の鳥取城を失ったものの、関ヶ原の戦いで活躍し、激動の天下統一戦を生き延びることができた。
「村岡藩主山名氏墓所 桜山御廟」には、中央に十一代因幡守義済公、右に十二代男爵義路公、左に十三代男爵義鶴公の墓が並んでいる。
義済公が立藩し大名に列せられたのは、新政府軍の生野接収に協力したからであり、山名家の生きる力はここにも顕れている。版籍奉還により義済公は知藩事となり、義路公がその地位を継承したものの、廃藩置県で村岡藩は短い歴史を閉じることとなる。
義路公は華族令により男爵に叙せられ、これを義鶴公が襲爵した。義鶴公は労働問題に関心が高く、戦後は民主社会党(民社党)の結成にも関わったという。
少し下の平地に「奥方部屋」がある。遺構のほとんどない陣屋跡においては貴重な建物だ。この建物の存在意義は、幕末史の重要な局面である文久の改革を実感できることにある。旧村岡町作成の説明板を読んでみよう。
この建物は、文久三年(一八六三)の武家諸法度「妻子の帰国は勝手とする」のお触れにより、江戸住まいの十一代義済公の奥方が帰国するため、陣屋に増築されたものです。
明治七年(一八七四)に陣屋が取壊される際、蚕糸問屋の池尾家が奥方部屋を買取り、移築して離れ部屋として使用していたものを、平成二年(一九九〇)に池尾利治氏より寄贈を受けて、村岡町が陣屋跡に復元したものです。
建物は当時のまゝ復元してありますが、元々陣屋の一部として建てられていたため独立した玄関が無く、複元にあたり玄関部分は新しく造りました。
文久二年(1862)、薩摩藩の島津久光らの主導により文久の改革が断行され、参勤交代は三年一度に緩和となった。と同時に、妻子の帰国も許された。まさに幕府の威信低下を象徴するようだが、参勤緩和は各藩が経費節減により海防に力を入れるためであり、妻子の帰国も江戸における浪費や奢侈の風を改める意図があった。
今年8月4日、第45回村岡ふる里祭りが行われた。この祭りで注目したいのが「村岡藩山名子ども大名行列」である。教科書では室町時代にしか登場しない山名氏は、ここ村岡の地で近世、近代、そして今も敬慕されているのであった。
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