今月11日は、第一次世界大戦の休戦協定が署名されてから、ちょうど100年の節目の日だった。フランスのパリで記念式典が開かれ、マクロン大統領(仏)、メルケル首相(独)、トランプ大統領(米)、プーチン大統領(露)、麻生副総理(日)ら各国の首脳が参加した。
大戦後に高まった国際協調の機運を現代の首脳によって再現しようとしたが、仲良くできたのはかつて仇敵だった仏独ばかりで、米露はまったくシラケていた。悲惨な過去に学ぶマクロン大統領の姿勢は高く評価していい。第一次世界大戦は決して歴史の彼方ではない。
武雄市武雄町大字富岡の円応寺墓地に「有馬之役戦死者慰霊碑」がある。
戦死者の霊を慰めるため碑を建てる。特に太平洋戦争で亡くなった兵士の名を刻んだ慰霊碑は各地で見かける。このブログでは「薩軍と戦った人々」で西南戦争の慰霊碑を紹介したことがある。では「有馬之役」とは何だろうか。
有馬之役とは、江戸初期の一六三七~三八年(寛永一四~一五)に島原藩と唐津領天草の農民が天草四郎を首領に、キリシタン信仰を旗印として起こした百姓一揆で、一般的には島原の乱といいます。この一揆の鎮圧に江戸幕府軍十二万四千人があたり、武雄邑からは第二十一代領主鍋島茂綱とその子茂和が二千三百余名を率いて参戦しました。原城での攻防はすさまじく、武雄の戦死者は五十六名を数えました。
この慰霊碑は、島原の乱後二百年忌を記念した供養碑で、天保七年(一八三六)に建てられています。碑面には、建立された経緯と戦死者の名前が刻まれています。島原の乱のすさまじさを伝える貴重な歴史遺産です。
平成十年四月三日 武雄市重要文化財指定
いわゆる島原の乱、近年では島原・天草一揆と呼ばれる大規模な反乱であり、幕府側は総力を挙げて鎮圧にあたった。このブログでは、遠く離れた鳥取藩から参陣した武士を紹介したことがある。
比較的近い武雄からは、2300余名という多くの動員があり56名が戦死した。その慰霊碑が二百年忌に建てられたのである。現在から200年前といえば化政文化の時代で、まったくの歴史の彼方である。しかし武雄の人々の歴史認識では、島原の乱は200年後も記憶の範囲内であった。
というのも、当時はパクス・トクガワーナ、島原の乱から幕末まで続く天下泰平を謳歌していたのである。現代の私たちが「先の大戦」と聞けば、太平洋戦争を思い起こすのと同じように、武雄の人々にとって島原の乱は、200年を経ても「先の大戦」だったのであろう。
武雄の人々は慰霊碑を建てることで平和を誓った。動乱の幕末が静かに近付いていることも知らずに。このように上から目線でものが言えるのは、我々がすべてを知っているからだ。
ならば現代政治はどうなのだろう。我々は何も分からない。第一次世界大戦の教訓に学ぼうとしていることが、平和を維持することとなるのか、徒労に終わるのか。日独仏三国同盟を今後の政治課題としてもよいのではないだろうか。
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