日本史上最大の謎は「邪馬台国論争」であろう。今年、纏向遺跡で出土した大量の桃の種が、卑弥呼の時代のものと明らかになったことで、邪馬台国畿内説が一段と有力になったと言われている。
かつての大論争に「神籠石(こうごいし)論争」があった。明治30年代に始まり、「山城説」と「霊域説」が対立してなかなか決着しなかった。霊域説を主張した学者に喜田貞吉(きたさだきち)がいる。
国史教科書の編纂に携わっていた喜田は、明治44年、南北朝正閏問題で処分を受け休職となってしまう。南北朝の並記という今では当たり前の記述をしたところ、南朝正統論者から非難されたのである。
その喜田が唱えた神籠石「霊域説」はどうなったのだろうか。本日は、九州に点在する神籠石の一つを訪ねたのでレポートする。
武雄市橘町大字大日に「おつぼ山神籠石」がある。国指定史跡である。
写真は「第一水門」で、重要な排水機能を担っている。この神籠石は山城なのか、それとも霊域なのか。武雄市教育委員会が平成14年に設置した説明板には、次のように記されている。
おつぼ山神籠石は武雄市橘町小野原に位置しています。歌垣の山で知られる杵島山の西麓に派生した半独立丘の勒山の中腹を列石の延長一八七〇mの列石が廻っています。昭和三十八年に発掘調査が行われ、神籠石が朝鮮式古代山城であることが初めて確認されました。
考古学の進展で朝鮮式山城との共通点が確認されたことから、神籠石「山城説」が定説となったのである。おつぼ山神籠石は高く評価され、昭和41年に国の史跡に指定された。これを記念して、写真に見られるような標柱と説明文を刻んだ碑が設置されている。次に示すのは、その碑文である。
神籠石は古墳時代後期に築成されたと推定されている朝鮮式山城に類する古代史上重要な遺跡である。
おつぼ山神籠石は杵島山の西側に派生して半独立丘を呈している標高六二米のおつぼ山に築成されていて昭和三十七年五月に発見された全国八番目の神籠石である。
この神籠石の列石の延長は約一八七〇米でその中約七六〇米は破壊欠失している。門址二ヵ所水門址二ヵ所土塁一ヵ所が現存しており列石線の前面には三米の間隔で柱孔が並び木柵が設けられていたことを物語っている。
注目したいのは築造時期だ。「古墳時代後期」はおそらく、横穴式石室の高度な石積み技術から推定したものだろう。ところが、さらなる考古学の進展により、新たな知見が得られようとしているのだ。先ほど紹介した平成14年の説明板には、次のように示されている。
築城の時期については、おつぼ山では関連する出土遺物がなく不明ですが、福岡県頴田町の鹿毛馬神籠石や行橋市の御所ケ谷神籠石、岡山県鬼ノ城神籠石で七世紀初頭から末にかけての須恵器が出土しており、神籠石が七世紀代に逐次築かれたことが判明しつつあります。
7世紀であれば朝鮮式山城の築城時期と重なる。朝倉市の「杷木(はき)神籠石」を紹介する記事で述べたように、古代日本最大の国難に際して築かれたのであろう。かくして「神籠石論争」は、ほぼ決着したと言ってよい。
残るは「邪馬台国論争」だ。福岡県田川郡赤村内田小柳に巨大な前方後円墳に見える地形があり、「卑弥呼の墓では?」と話題になっていることを、今年3月に西日本新聞が報じた。近年は劣勢の九州説が、これで一発逆転するのか。論争は決着しないほうが盛り上がっていいのかもしれない。
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