源為朝(ためとも)は身長が2mを超えていたという。『保元物語』に「為朝は七尺許なる男」とある。プロレスラーかいな。ちっちゃな頃から悪ガキで13で不良と呼ばれ、九州に追放されるがさらに大暴れ。
鎮西八郎と呼ばれた為朝ゆかりの地は、鎮西つまり九州各地に点在する。本日は佐賀県にある伝説地を紹介しよう。
武雄市若木町大字川古(御所)に「為朝の弓掛松」がある。「弓かけ松」と刻まれたコンクリート製の碑が建てられている。
松がずいぶんと若いが、若木町という地名とは関係なく、先代の松の大木が枯死したため新たに植えられたようだ。若木小学校の卒業生が「弓かけ松保存のため」として建碑したのは昭和47年だが、その頃には立派な松があったのだろう。
碑には郷土唱歌として次のような歌が刻まれている。
姿ゆかしき眉山のすそ野も広き松が平ちん西八郎弓かけし若木の名こそしのばるれ
鎮西八郎為朝は、この地にどのような足跡を残しているのだろうか。武雄歴史研究会『ふるさとの歴史散歩・武雄』に次のような記述がある。
武雄に来た為朝は、はじめ橘町のおつぼ山に居たようだが、目に余る乱暴を見かねた領主助明は、若木の山の中に館を作りここに住まわせることにした。為朝はここ(現在若木町御所)が気に入ったらしく、みずから「御所」と呼んで落ちつくこととなった。
(中略)
「弓かけ松」も同じ部落に残っており、為朝が黒髪山の大蛇を退治した後、ここに弓を掛けて、弓矢八幡に、感謝の祈りをささげたという。
おつぼ山には「おつぼ山神籠石」という古代山城があるが、ここの列石を為朝の館跡に見立てたようだ。乱暴を見かねた第3代武雄領主の後藤助明が、人里離れた若木の山の中に新しい館を提供すると、「御所」と呼んで満足したという。地名発祥説話でもある。
黒髪山は迫力ある奇岩で知られ、大蛇伝説が生じるのはさもありなんと思わせる。土地の人々を悩ませる大蛇を見事に退治したのが領主助明と客将為朝であった。領主の名は高宗だともいう。その折に弓を掛けたのが、本日の「弓掛松」である。
大蛇退治については、もう少し面白い話があるので別に紹介することとしよう。今宵(こよい)はここらでよかろうかい。鎮西八郎、チェスト!きばれ!
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