26日から東京で「お台場ーゲン」という超大型セールが実施中だ。今年は、免税や外国語案内などインバウンド向けのサービスも充実したという。ここでは、数えきれないほどの人々が財やサービスを手に入れ、心を満たして帰っていく。さすがはお台場。日本を代表する、いやアジア有数のホットスポットと呼んで過言ではないだろう。
浅口市寄島町に「青佐山(おおさやま)台場跡」がある。浅口市指定の史跡である。この7月の豪雨で土塁の一部が崩落したようだ。
ここも「お台場」と呼ばれている。東京のお台場は、黒船ショックの幕府によって安政元年(1854)に築かれ、以前に紹介した鳥取藩のお台場は、文久四年(1864)に築造された。瀬戸内海に面したこのお台場はどうだろう。浅口市教育委員会、同市文化財保護委員会の説明板を読んでみよう。
嘉永六年(一八五三)のペリー来航以来、外国船が日本近海に出没するようになると、幕府の対外政策が強化された。
攘夷論が盛んになると鴨方藩は、文久三年(一八六三)十月に封内備中沿岸砲台造営防禦の勅令を受け、青佐山台場と長浜台場(笠岡市大島中)の築造を始め、浅口郡沿岸の警備の任に当たった。同年十一月に鴨方藩主池田政詮がこの台場の実地検分に訪れ、寄島(三郎島)へ向けて試射を行なった。砲弾は寄島まで届かなかったという逸話が伝わっている。台場は、明治四年(一八七一)の廃藩置県とともに廃棄された。
この台場は、水島灘を一望できる青佐山の東南方の海に向けて張り出した中腹に築造された。
文久三年(1863)に尊王攘夷運動はピークに達していた。長州藩と朝廷内の過激派は攘夷実行を国の方針とすることに成功したのである。これにより幕府は4月23日、諸藩に対し次のように布告した。維新史料編纂事務局編『維新史』第3巻(昭和16)より
攘夷之儀五月十日可及拒絶段御達相成候間、銘々右之心得を以自国海岸防御弥以厳重相備、襲来候節ハ掃攘致し候様可被致候。(久居藩庁記録)
攘夷については、5月10日に外国を拒絶することとなったので、各藩はこの旨を踏まえ、地元の海岸の防御をいっそう厳重に行い、外国から攻撃された場合には打ち払うものとする。
「襲来候節ハ掃攘致し」と、攻撃されたら打ち払えと常識的な対応を示しているにもかかわらず、過激な長州藩は通りかかっただけの外国船を砲撃した。こうなると、どのような事態が出来するか予測不可能だ。とにかく急ぎ海岸の防御を固めるべく、各藩は砲台の建設に力を傾注することとなった。
岡山藩の支藩である鴨方藩も、瀬戸内防衛のために砲台を築いた。実地検分に来た藩主池田政詮(まさのり)は、あまり威力のない大砲にがっくりしたことだろう。政詮は後に池田宗家を継ぎ章政(あきまさ)と名乗った。最後の岡山藩主である。
青佐山台場は実際に使用されることなく、攘夷運動の嵐は過ぎ去った。江戸湾のお台場も同様である。ところが安倍政権は、新たな台場を秋田と山口に設置しようとしている。イージス・アショアである。
本当に国土防衛において最適解なのか。むしろアメリカが喜ぶだけではないのか。米朝協議は進まず、日韓関係はレーダー照射問題で最悪の状況だ。地元でも配備反対の声が高まっている。幕末のお台場は今や平和と繁栄の象徴であるが、安倍政権が築こうとする現代のお台場が将来に禍根を残すことにならねばよいのだが。
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